途中列車に乗り換え、吉祥寺にある四元義隆の家に着いたのは午後3時ごろだった。

 薄暗くなる夕刻の時間帯の午後6時。床の間に供えられた神棚に灯明が灯された。義隆の家には、次々に若者が姿を現した。彼らに対し、四元義隆は「命は俺が預かった」と言い放ったあと、具体的な任務を説明した。

「日本は窮地に立たされている。広島や長崎で原爆が落とされた。このまま戦争を続ければ、本土決戦は避けられない。ポツダム宣言を受け入れることこそが、日本の国体を維持することになる。鈴木総理は命懸けで、受け入れの準備をしている。ただ、陸軍はそれに強硬に反対しており、いつ反乱を起こすかわからない。総理の身に何かあれば、日本の再興は困難になる。ここにいる4人が総理の警備の柱になってほしい」

 鈴木貫太郎を襲ってくる部隊がいれば、素手で立ち向かう。それが四元義隆の命令だった。

 この親衛隊の隊長は北原勝雄。四元にとっては、鹿児島二中、七高柔道部の後輩だ。四元からの信頼は厚かった。

 四元の話が終わると、各メンバーの前に盃が配られた。一人ずつ、四元の前に進むと、盃にお神酒が注がれた。自分の身を盾にして総理を守ることを誓って盃を空けた。これは、親衛隊の結成式だった。

 親衛隊はその後、用意された車で、小石川・丸山町の鈴木貫太郎の私邸に向かった。事前に下見する必要があるからだ。

 長松は11日、四元の家に泊まった。翌12日、朝起きて官邸に出向くと、内閣嘱託という身分証を手にした。それから総理官邸での不眠不休の警護が始まった。

 なぜ、鈴木貫太郎親衛隊が生まれたのか。四元と書記官長の迫水久常は同じ鹿児島県出身で旧知の間柄だった。当時陸軍のなかでは、徹底抗戦派が殺気立っており、2人はかねがね鈴木貫太郎の護衛に関して懸念を抱いていた。そこで、戦争終結を必死で考えている青年や学生がメンバーとなる親衛隊が必要との考えで一致した。

 翌13日、事態は早くも緊迫した。北原のもとに、「今晩、陸軍が襲撃する」という情報が入った。北原は長松ら3人を呼び出した。

 「一兵たりとも、総理の部屋に通してはいけない。命懸けで立ち向かえば、お守りすることは可能だ」と鼓舞した。武器を持っていない親衛隊にとっては、身を挺して総理を守るしかない。官邸内は灯火管制で真っ暗だ。親衛隊の部屋は、総理官邸の正面玄関に向かって左2つ目にあった(私邸は、玄関を入り直ぐの間に位置)。真夏なのに窓を閉め切っており、暑い。じっとりと汗が流れた。しかし、この日、陸軍は姿を現さなかった。みな一睡もしないまま夜が明けた。