鈴木貫太郎親衛隊の長松は、貫太郎が私邸から脱出したのち、警視庁で借りたオープンカーをエンジンを切らずに待たせておいたので、すぐ残った3名が乗車した。運転手の「次はどこへ」との声に「最も近い駅に着けてください」というと、そこがたまたま駒込駅であった。駅で車を降りると山手線と中央線を乗り継いで、吉祥寺にある四元邸に向かった。長松は巣鴨駅を過ぎた際、山手線の窓から外を見た。朝もやのかかるなか、2カ所から煙が上がっていた。1つは、いましがたまでいた総理私邸だ。もう1つは、平沼枢密院議長の私邸だった。いずれも佐々木たちが火を放った。

 長松らは四元に報告した。四元は黙って聞いていた。長松は三日三晩徹夜したが、眠くはなかった。そしてこの四元邸で正午を迎え、玉音放送を聞いた。
玉音放送での終戦の詔の後、たくさんの人たちが宮城(皇居)前広場でひざまずき頭を下げた=昭和20年8月15日
玉音放送での終戦の詔の後、たくさんの人たちが宮城(皇居)前広場でひざまずき頭を下げた=昭和20年8月15日

自彊不息


 長松は長い話に多少疲れたようだったが、私にもう一つ見せたいものがあるといって、仏壇の引き出しを開けた。そこには、古い色紙が入っていた。

「自彊不息〈じきょうやまず〉」

 それは貫太郎の書で、たゆまぬ努力を続けることの大切さを説いたものだ。貫太郎は終戦ののちに、親衛隊のメンバーを親戚の家に呼び、一人一人に直接手渡した色紙という。

 貫太郎は昭和11(1936)年の「二・二六事件」の際、陸軍のクーデター部隊に襲われ、3発の銃弾を受けている。平和の尊さ、そして陸軍の恐ろしさを最も痛烈に認識している男だ。死の直前「永遠の平和、永遠の平和……」と繰り返し語った。

 長松は貫太郎に対する畏敬の念を抱きながら、「鈴木貫太郎閣下は『戦争が終わり平和になった。君たちは若い。これからの日本に平和が継続するために頑張ってほしい』とおっしゃいました」と語った。

 その上で語気を強めた。

 「鈴木貫太郎閣下も、四元義隆先生も、そして末端の私も、皆戦争を終わらせるのに命を懸けました。戦争は始めるのは簡単ですが、終わらせるのは大変なのです」

 長松の熱い言葉を聞きながら、私は思いを新たにした。戦後70年の日本の平和は、先人たちの魂の上に築かれているのだ。それを忘れてはいけない。
〈文中敬称略〉

でまち・ゆずる ジャーナリスト。1964年、冨山県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科を卒業後、時事通信社入社。ニューヨーク特派員を経てテレビ朝日入社。番組デスクの傍らで、東日本大震災をきっかけに執筆活動を開始。著書に『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(文藝春秋)、『九転十起 事業の鬼・浅野総一郎』(幻冬社)などがある。経済記者として数多くの企業トップのインタビューも手がける。