参院選で始まったこの夏は、選挙のあとのさらなる展開も、全く実在しなかったニセの少女像がソウルの日本大使館前から動かないまま安倍政権は日本国民の税を十億円、韓国に差し出し、中国は沖縄県石垣市域の海に怖れもなく国家の武装船や、漁船に偽装して民兵を乗せた船、そしてわずかなカネで釣られて動員された貧しい漁船を大量に侵入させ、北朝鮮は国営メディアに平然と「拉致は解決済みだ」と言わせた。

 国民のなかに「これでも日本は国家と言えるのか」という声が憤然と湧きあがっているのは、むしろ国際社会の健全な常識に沿っている。

 一方で、リオ五輪では日本選手がまさしくフェアに敢闘している。世界を回るテニスの錦織圭選手は、五輪の成績が世界ランキングに反映されないのを承知で「オリンピックには国を背負う重みがある」とマスメディアに明言して参加し、大きくはない体躯に大和魂を詰め込んで巨人たちに立ち向かい、テニス日本勢九十六年ぶりのメダルを獲った。

 さらに今上陛下がおことば (勅語) を発せられれば、ほとんどの日本人が「国と民を優先されるおきもち(大御心/おほみこころ)」に魂を惹きつけられている。「死ねますか」と問うのは、ほんとうに死ねということなのか。では、「武士道といふは死ぬことと見付けたり」という葉隠(はがくれ)の一節は、さぁ死ね、すぐ死ねと言っているのか。違う。生きよ、他人のために生きよ、自分のためだけに生きていては人生は空しく死ぬだけだ、他人のためにいざとなれば死ねるほどに生きて初めて人生は輝くと、葉隠の書を口述した江戸中期の武士、山本常朝さんという世界レベルの哲人は言っているのだ。

 われら現代の日本国民のなかにも、命を賭けるがごとくに人のため、公のために生きたいと願う魂が健在のひとびとがいる。戦前戦後を貫いて変わらない根っこも、日本社会の深奥にじっと静まって活きている。「今の日本に、国のために命までかけることなどあり得ない」という思い込みも、「前の日本は誰でも国のために命を捨てさせられた」という刷り込みも、いずれも間違いであることに気づくことこそ、ぼくらの再出発である。

 たとえば自衛官はすでに、国のために死を覚悟する作戦に何度も従事している。「え? 戦前の日本陸海軍と違って、それは無い」。政治家、学者、ジャーナリスト、有識者らはこぞってそう反論する。わたしはテレビ番組などで何度もこの無知な愚論に向かい合ってきた。
毒物除去作業を行なうため、駅構内に向かう陸上自衛隊員=1995年3月20日、営団地下鉄日比谷線築地駅
毒物除去作業を行なうため、駅構内に向かう陸上自衛隊員=1995年3月20日、営団地下鉄日比谷線築地駅
 福島原子力災害のあの最悪の初期状況のなか、至近距離の空からヘリで水を投下した自衛官たち、あるいは地下鉄サリン事件で暗い霞ヶ関駅に進入していった小隊の自衛官たち、いずれもまともな情報すら無いまま死を覚悟して国と国民のために作戦に就いたのである。

 それを国民が理解してくれないのではない。絶対多数派の議員、識者が分からない、知ろうともしないから国民にも伝わらないだけなのだ。