決着していた竹島問題

 ところがその回答は、鬱島郡の付属島嶼は「竹島、石島」で郡の管轄範囲は付属島嶼を含めても「東西24キロ、南北16キロ、合わせて80キロの長方形の範囲にある」という意味のものだった。これは、問題となった竹島/独島は鬱島郡の管轄範囲にはないことを認めたものだ。「大韓帝国の領土である独島が日本の領土になった、これは不当なことだ」という認識でいたはずなのに、現実には独島は管轄下にはないという意味の回答をしたのは、おそらく鬱島郡の設置を定めた勅令41号を改めて点検した結果、その勅令には「外洋百余里」にある独島に関する規定など何もないことを確認したからなのだろう。独島は鬱島郡の付属島嶼だというだけの根拠がなかったのだ。

 そして、独島/竹島が日本の領土となったことを知った上で、その独島は鬱島郡の管轄下にはないことを認めたということは、すなわち日本の竹島領土編入には韓国政府として異議がないことを表明したことになる。1905年の日本の竹島編入は、沈興沢の報告のために、韓国の官民に一時的に「日本が韓国の島を奪った」という間違った理解を引き起こしたものの、その後の韓国政府の再検討によって、その理解は間違いであり韓国政府として異議を唱える話ではないという形で了解されたのだ。つまり、日本の竹島編入には韓国政府も異議がないという形で竹島問題は1906年に既に決着していたことになる。

 なお、そもそも沈興沢がなぜ竹島/独島を「本郡所属」と思っていたのかその理由は不明なのだが、その当時、鬱陵島に住む日本人が鬱陵島の韓国人漁夫たちを連れて竹島/独島に出漁することが行われていたので、郡守である沈興沢は当然そういうことを知っていて、鬱陵島から竹島/独島に行って帰って来るのだから竹島/独島は鬱陵島の付属の島だと考えるようになったのではないかと筆者は推測している。

   そういう考えを持つのは現地の責任者としては自然なことかも知れないが、中央政府において竹島/独島を領土として支配管理するための何かの措置が取られていたことはないし、それどころか、中央政府は沈興沢から報告を受けるまで竹島/独島という島があることすら知らなかったのが実情だ。だから、鬱島郡守個人が竹島/独島についてどういう認識を持っていても、国家としての領有権には全く関係のないことだった。


おわりに

 現在、韓国人たちは大統領からマスコミ、さらにはネットで発言する個人に至るまで、日本人に向かって「歴史を直視せよ」と繰り返し言う。だが、本当に歴史を直視できていないのは韓国のほうであることを今や多くの日本人が知っている。「鬱島郡の配置顛末」も韓国人たちが歴史を直視しないことの一つの現れだ。韓国政府は今から110年も前に日本が竹島を領土とすることに異議がないという姿勢を表明していた。しかし今はそういうことも忘れ去り、「独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲である」などと言いながら日本の正当な領有権主張を非難する。だが事実はそうではない。歴史資料をまじめに見ていけば、竹島問題に関する韓国側の主張は嘘ばかりであることが明らかになるものなのだ。

 ただ、「鬱島郡の配置顛末」は新聞記事だ。そして、そこで報道されたところの韓国政府からの回答文書そのものは確認されていない。だから、事実関係を確定させる上での証拠力という点では若干劣るかも知れない。しかし、この新聞記事が虚偽ないし間違いであると言える根拠もないから、日韓間で竹島/独島をめぐって論争を行う上で無視できるものでもない。この記事の「東西が60里、南北が40里なので合わせて200余里」の解釈について、これは鬱島郡の範囲を述べたものではないという趣旨の反論が韓国人の論者から提起されている。筆者は3人の反論を読んだことがあるが、そこでは、3人が一致して同じ点を指摘するのでなく、3人三様の説明がなされているのは、この記事に対して有効な反論がないことを示唆しているように見える。

 「鬱島郡の配置顛末」の記事は一般にはそれほど知られていないようだが、実は二つの面で大きな意味のある史料だ。本稿が竹島問題に関心を持つ人の論点理解に多少なりと役立つならば幸いに思う。

 (平成28年6月26日 記)