ペレと並び称される「曲がった脚をもつ天使」


 ドリブルの名手であったガリンシャはリオデジャネイロ州西部の小さな集落で誕生した。6歳の時に小児麻痺にかかるが、家庭が貧しかったために病院での治療は行えず、医大を出たばかりの若い医師がボランティアとしてガリンシャに手術を施した。しかし、十分な医療機器がないまま行われた手術によって、ガリンシャの背骨は歪曲し、両足が同じ方向にねじ曲がってしまった。左足が右足よりも5センチ以上短かったという記録も残っている。

 バスの運転手として生計を立てていこうと考えたガリンシャだが、知能テストの結果が低かったために、バスの運転手になる夢を断念している(小児麻痺の影響で、ガリンシャには軽度の知的障害があった)。サッカー選手として生活できないかと考えたガリンシャは、リオデジャネイロ周辺の幾つかのクラブチームの入団テストを受けに行ったものの、曲がった足を見たクラブ関係者からテストを受けることすら断られたり、サッカーシューズを持っていなかったためにテストを受けられないといった経験をしている。しかし、19歳の時の転機が訪れる。

 工場で働きながら地元チームでプレーしていたガリンシャのドリブルの才能に目をつけたのが、リオデジャネイロのビッグクラブとしてブラジル代表の選手が何人もプレーしていたボタフォゴだった。トライアル期間中のある日、ガリンシャはブラジル代表のディフェンダーとしても活躍するニウトン・サントスと一対一の勝負を繰り返し行い、ブラジル屈指のディフェンダーとして知られたサントスをガリンシャは何度も簡単に抜き去り、無名の若者に恥をかかされたサントスはすぐにクラブの幹部に「じっとしていないで、すぐにこいつと契約すべきだ」と直談判しに行ったという逸話が残っている。
1962年、チリでのサッカーW杯に出場したガリンシャ(左)
1962年、チリでのサッカーW杯に出場したガリンシャ=左(Wikimedia)
 ボタフォゴで頭角を現したガリンシャは、ブラジル代表にも選出され、前述のジジやペレらと共にブラジルの黄金時代を作り上げた。ガリンシャは身体的なハンデを逆手にとって、トリッキーなドリブルを仕掛けることで相手ディフェンスを恐怖に陥れた。ある時はディフェンダーを置き去りにし、ある時はディフェンダーの股下にボールを通して突破する。誰がディフェンスをやってもガリンシャの幻想的なドリブルを止めることはできず、いつしかブラジルのメディアは相手ディフェンダーを「ジョアンたち(ジョアンはポルトガル語でよくある男子の名前で、誰がやっても同じという皮肉が込められている)」と呼び、ガリンシャは「脚の曲がった天使」と呼ばれ愛された。ブラジルでは現在でもペレとガリンシャのどちらがより優れていたのかという論争が存在するが、実際に現役時代のペレとガリンシャのプレーを見た筆者の知人のブラジル人は、「ペレは最高のアスリートで、ガリンシャは最高のアーティストだった」と語る。

 晩年のガリンシャはアルコール依存症に苦しみ、49歳の若さでこの世を去ったが、身体的なハンデを武器にして、芸術的なプレーでブラジル最高のサッカー選手の1人になったガリンシャの生き様に敬意を表するブラジル人は少なくない。今回のリオ五輪でも、選手の置かれた環境は競技や出場国によって大きく異なる。最高の練習施設を使うことができ、トレーニング方法やスポーツ医学の分野で知識の高いスタッフに囲まれたアスリートもいれば、そうでないアスリートもいる。ある意味で、先進国のアスリートや、国際的な企業にバックアップされているアスリートと、そうでないアスリートとの間には、経済面から練習環境まで様々な部分でハンデが存在する。しかし、そういったハンデを乗り越えたアスリートが活躍を見せた時、世界中のスポーツファンはそのパフォーマンスに歓喜するのだ。ファベーラ出身のラファエラ・シルバの活躍が、暗い話題の続くブラジル社会で芽が出始めた希望の種なのかもしれない。