炎上する「24時間テレビ」固有の問題


「チャリティー標榜ビジネス」と「一億総ネット評論家時代」という2つが、「24時間テレビ」を炎上させる基本的な要因である。しかし、これは考えてみれば、非常に普遍的な要因でもある。必ずしも「24時間テレビ」だけに当てはまる問題ではない。

無数のチャリティー・コンテンツが存在する中で、なぜ、ここまで「24時間テレビ」が問題視され、各方面からの嫌悪を持たれるのだろうか。

そこには二段階の問題がある。

マラソン終盤、日本武道館へ入る林家たい平=8月28日、東京都千代田区
マラソン終盤、日本武道館へ入る林家たい平=8月28日、東京都千代田区
まず、第一段階は上述したように、「24時間テレビ」が我が国におけるチャリティー番組の代名詞であり、同時に「チャリティー標榜ビジネス」の象徴にもなっているためである。この点に関しては、むしろ、チャリティー標榜番組の先駆けであるがゆえに同情する部分ではある。

しかし近年、「24時間テレビ」がチャリティー・コンテンツの代表として批判されていること以上に炎上が加速し、鎮火しない最大の理由は、次の第二段階目にある。第一段階がチャリティー・コンテンツ全体への嫌悪・批判だとすれば、第二段階は「24時間テレビ」固有の問題だ。

その固有の問題とは、「24時間テレビ」がチャリティー番組ではなく、「障害者を素材にしたバラエティ番組」となっており、しかもそれが視聴者にバレてしまっている、という現実だ。これは、テレビ産業それ自体の地盤沈下、相対的な刺激や影響力の低下によるメディア産業全体の問題でもある。

まず前提として、近年のバリアフリーの意識や社会インフラの盛り上がり、技術的な高まりに伴い、障害を持っている場合でも、ほとんど健常者と変わらない生活ができることも珍しくなくなった。もちろん、パラリンピックなどで、国益を代表して大きく注目されるチャンスも増えてきた。

一方で、パッと見ただけでは障害とは思えない「障害」への理解も深まりつつある。例えば、発達障害や学習障害を持つハリウッドスターや人気タレントなども珍しくはない。しかし、身体障害のような直感的に理解できる障害とは異なり、なかなか理解はされづらい障害だ。

それでも最近ではそういった障害に対する理解も進み、障害が持つ多様性も認められるようになり、障害と健常とは明確に線引きできるものではない、という認識も深まっている。今日、障害とはわかりづらい「グレーゾーン」の部分にこそ、多くの問題や課題が含まれている。

その一方で、テレビという直感的なメディアでは、「分かりやすい=目に見える」インパクトが求められる。「お茶の間・娯楽の王さま」から陥落し、「ながら視聴」が一般化した今日、その状況は一層加速している。テロップや擬音で埋め尽くされたテレビ画面は、音を消しても理解できるような状況だ。油断すれば、スマホやパソコンなど、他のメディアに即座に視線を切り替えられてしまう。

そのような現状を考えるだけでも、直感的ではない、説明を要するような、わかりづらい「グレーゾーン」は扱いづらい。その結果、「24時間テレビ」のようなチャリティー標榜番組でも、「分かりやすい障害」を扱いがちになってしまうことは想像に難くない。

もちろん、扱う場合の内容も、視聴者の関心を釘づけるために、より強いインパクト(=わかりやすさ)を求め、障害者が露骨に「障害と戦う」「障害に苦しむ」姿を描かざるを得なるわけだ。つまり、「見世物小屋」だ。