なぜ足に障害のある少年に富士登山をさせるのか


 足に麻痺を持つ少年に一合目から富士山登頂を目指させるという本年の企画。これは「足に障害を持つ少年が、決死の努力によって富士登頂を果たす」という感動のストーリーを創り出すには、最適な素材なのかもしれない。しかし、「障害克服する」というテーマで、視聴者を啓蒙し、また、障害に苦しむ人たちに勇気を与える目的であれば、必ずしも「足が悪い少年」でなくても良いのではないか、と思う。

 目に見えない「心の障害」に苦しむ人でも良いのではないか。苦しみや、克服への努力に貴賎の上下も障害のレベルもないはずだ。しかし、それでは「分かりづらい」。「足が悪い人」が「富士山」という日本で一番高い山に登ることにインパクトがあると考えているからこそ生まれる企画だろう。

 チャリティーマラソン企画なども、そのような「わかりやすさ=視覚的なインパクト」を求めている以外の何物でもない。なぜ、無目的に番組時間中、走りつづける必要があるのか。これは「タレント苦しんでいる場面=感動」の置き換えに過ぎない。

 ランナーとなるタレントたちは、その多くが「チャリティー」とも「福祉」とも「マラソン」とも無関係だ。そこに理由はない。なぜなら、視覚的なインパクトあるコンテンツという意味しか持たないからだ。

 「24時間テレビ」に限った話ではないのであろうが、ここで重要なことは、現在の「24時間テレビ」の作り手が、「チャリティー番組」という本来の意義や意味は、何も考えていない/考えられていない、というリアルでシビアな現実を理解することであるように感じる。

 同番組がチャリティー番組としての成長する過程で、いつの間にやら、「チャリティー標榜ビジネス」となり、今日ではもはや「障害者を素材にしたバラエティ番組」へとメルトダウンしている。

 そうなれば、作り手たちは、常日頃作っているバラエティ番組と同様に、「より過激に」「よりくだらなく」「インパクト重視」で企画を練り、作る。そこに、チャリティー番組としての細かい検証などほとんどない。なぜなら、「障害者を素材にしたバラエティ番組」なのだから。残念ながら現場レベルでは、日々に仕事に追われ、番組スタート当初の志や意義などはほとんど継承されていないだろう。