例えばオリエンタルラジオの「パーフェクトヒューマン」をダウン症の少女と躍るという企画も同様だ。歌詞の内容とダウン症という症状があまりに乖離しているといった批判があるが、客観的に考えて、制作者が、意図的に障害者を笑い者にしようとして、あるいは批判を覚悟の過激企画として「パーフェクトヒューマン」を選んだとは考えづらい。

話題の「PERFECT HUMAN」を踊る
オリエンタルラジオの中田敦彦ら=東京・文京区
話題の「PERFECT HUMAN」を踊る オリエンタルラジオの中田敦彦ら=東京・文京区
 もちろん、内容の不適切さに対する浅はかさは反省すべきだが、作り手はバラエティ番組として良かれと思って単純に「話題のヒット曲」と「障害者」を抱き合わせただけだろう(それはそれでまた別の問題があるのだが)。制作者は、よりインパクトある、話題性がありそうな企画を、放送可能なギリギリのラインで狙っただけなのだろう。その意味では、制作者の狙いは見事に達成している。

チャリティー番組と思うこと自体が問題


 よって、「24時間テレビ」をチャリティー番組、福祉の啓蒙番組として認識することにも問題があるのではないか、と筆者は考えている。「障害者を素材にしたバラエティ番組」として捉えれば、あとは出演する人の解釈や倫理的問題、コンプライアンスの問題だ。出る出ない、見る見ないは、当事者の問題である。

 「24時間テレビ」には、多くの障害者の方やその家族、関係者が登場している。無理矢理出演させているわけではないのだから、当事者たちにも「24時間テレビ」には、まだ、出演する意味や意義が見出されている、ということでもある。

 ただし、それらの人たちがみな、「24時間テレビ」の「障害者を素材にしたバラエティ番組」としての実態を理解しているかは、不明だ。放送を見て、驚く場合もあるかもしれない。一方で、「障害者を素材にしたバラエティ番組」を障害者自身が許容し、あるいは楽しみに、そこに意義を見出すこともあるだろう。

 「24時間テレビ」がチャリティー番組ではなく、「バラエティ番組」という認識が広がれば、それはそれでまた新しいバリアフリー番組のあり方も生まれてくるように思う。
スポンサー集めや募金活動のあり方も変わってくるであろうし、これまで積み重ねてきた歴史や経緯、社会的意義も失いかねない大きな問題だろうが、それは日本テレビの都合であって、ほとんどの視聴者には無関係だ。少なくとも、現在のようなチャリティー標榜バラエティによって発生する批判は軽減するように思う。