文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信できない


 この結論を読めば今回の騒動の大筋は理解できるが、そのことと、「相対的貧困」当事者の声をどう伝えるか、どう「代弁」するかは別問題である。

 相対的貧困者は6人に1人になっているが、その2,000万人の人々は、残念ながらほとんどが自らの気持ちや状態を発信できない。

 これは、貧困に伴う学習不足や、貧困の結果生じる児童虐待から陥った発達の遅れ等の原因が考えられるが(たとえば杉山登志郎医師の「第四の発達障がい」や、ライター鈴木大介氏の「脳障害と貧困記事」貧困の多くは「脳のトラブル」に起因している 「見えない苦しみ」ほど過酷なものはない等参照)、そうした原因論はまさに最前線の議論だからまだ一般化はされていない。

 これらはひとことで言うと、「文化」不足からくる発信能力の低さだ。
 貧困家庭や養育環境が原因の低さなので、思春期以降に出会った第三者による「文化シャワー」があったとしてもなかなか発信能力は獲得できない(ちなみに僕の本業はこうした「文化シャワー」をハイティーンに伝えることだ→たとえばこの記事参照「カルチュラル・シャワー」高校生カフェは2.0に~横浜、川崎、大阪のチャレンジ)。

 人間の「世界」とは、イコール「ことば」の世界の豊穣さとつながる。また、ことば(記号)を土台としたさまざまな「文化」を子ども時代にどれだけ浴びたか、その浴びた文化「量」がそのまま、その人の「世界」の広さとつながる。

 その文化内容に「善悪」はあるとしても、まずは「量」を浴びる必要がある。ことばと文化をたくさんたくさん浴び、それらのシャワーから自分に適した価値を選択していく。
 その価値に基づいた自分なりの「ことば」が、その人の世界観を構成し、その世界観から自分なりのことば(つまりはその人の世界観)が発信できる。

 まずは、ことばや文化のシャワーを小さい頃に浴びないことには、発信もできない。
 その点で、一般的に、紋切りの文化や狭い語彙しかもたない貧困層の世界観は不利だ。