さらに生長の家は、「生長の家政治連合」を結成して、参議院に議員を送り込んだ。
自民党の故・玉置和郎元総務庁長官(中央)。「生長の家政治連合」に所属し、支援を受けていた=昭和49年1月
自民党の故・玉置和郎元総務庁長官(中央)。「生長の家政治連合」に所属し、支援を受けていた=昭和49年1月
 また、生長の家学生会全国総連合という学生運動の組織を結成したが、これは、1960年代広範に盛り上がる新旧左翼の学生運動に対抗するためのものであった。ここに集った人間たちが、現在の日本会議の事務局を担っている。

 新宗教はどこでもそうだが、その教団を作り上げた初代がもっともカリスマ的で、迫力があり、人を引きつける力をもっている。

 生長の家の場合がまさにそうで、谷口のカリスマ性が多くの会員、支持者を集めることに結びついた。

 しかし、そうしたカリスマ性を後継者も同じようにもつことは不可能である。

 それに、谷口が活躍した時代は次第に過去のものとなり、冷戦構造は崩れ、左右の対立という構図も重要性を失った。生長の家の教団自体が衰退したのも、時代の変化ということが大きかった。

 生長の家と日本会議の関係について、もう一つ注目する必要があるのが、谷口がかつて所属した大本のことである。

 大本は、出口なおという女性の教祖が開いた新宗教の一つだが、教団を大きく発展させたのは、神道家で、なおの娘すみと結婚した出口王仁三郎である。

 王仁三郎がいかにユニークな人物であるかは、拙著『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)でふれているので、それを参照していただきたいが、日本会議との関連で注目されるのは、この王仁三郎が1934年に組織した、「昭和神聖会」の存在である。

 昭和神聖会は、昭和維新を掲げる団体で、その賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていた。

 この昭和維新会の綱領では、「皇道の本義に基づき祭政一致の確立を帰す」や「天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す」といったことばが並んでおり、これは、谷口の主張、さらには日本会議の思想にも通じるものをもっていた。

 王仁三郎は、全国を奔走し、組織の拡大につとめるが、国家権力の側は、昭和神聖会の急成長に警戒感を強め、それが1935年の大本に対する弾圧に結びつく。

 警察は、大本が国体の変革をめざしているとして、王仁三郎などの教団幹部を逮捕し、教団施設を徹底的に破壊した(昭和神聖会については、武田崇元「昭和神聖会と出口王仁三郎」『福神』第2号を参照)。