「代表者はお飾り。実権は椛島有三が握る」という図式は、本体である日本会議そのものにも及ぶ。日本会議の本部事務局は、目黒区青葉台にあるオフィスビルの6Fに入居しているが、同じビルの同じフロアには、椛島有三氏自身が代表を務める「日本青年協議会」なる団体の本部事務所も同居している。とある内部協力者は、「日本会議と日本青年協議会の事務所は住居表示としては部屋番号が違いますが、実態は同じ部屋。間仕切りも何もない。日本会議の専従などおらず、日本青年協議会の専従が日本会議の仕事をしているのです」と語ってくれた。つまり、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が日本会議の改憲運動用フロント団体である前に、日本会議そのものが、日本青年協議会のフロント団体としての性格を持つのだ。

 「美しい日本の憲法をつくる国民の会」や日本会議に集まる人々を見れば、櫻井よしこ氏やケントギルバート氏のようなタレントや文化人のみならず、田久保忠衛氏、中西輝政氏、西尾幹二氏など学者・研究者の名前が並び、「ただの保守系著名人の親睦団体」のように見えなくもない。だが、日本青年協議会は違う。あの団体だけは別だ。
第18回公開憲法フォーラムで挨拶する櫻井よしこ氏=2016年5月3日
 日本青年協議会(以下、「日青協」)は、新興宗教・生長の家の学生運動に発祥を持つ民族派団体。70年安保の時代に「反全学連・反全共闘」の「民族派学生運動」として誕生した。その後、母体である「宗教法人・生長の家」そのものは路線変更を経て、政治運動から撤退したが、椛島有三氏以下日青協のメンバーたちは、未だに「生長の家」の創始者・谷口雅春の思想を信奉し、谷口雅春の説いた「愛国路線」を愚直に突き進んでいる。

 また、高橋史朗氏(明星大学教授)や百地章氏など日青協の幹部メンバーは、現在の「宗教法人・生長の家」に反旗を翻す宗教的原理主義団体「谷口雅春先生を学ぶ会」での活動も確認されている。日青協のメンバーは、70年代以降、弛むことなく、宗教的情熱を元に、政治運動を続けてきたのだ。

 谷口雅春存命中の「生長の家政治運動」について言及される際、必ずと言って引き合いに出されるのが、「生長の家は、『帝国憲法復元改正』を唱えていた」という点だろう。確かにそれは間違いがない。谷口雅春は熱心に「昭和憲法に正統性はない。明治憲法を復元すべきだ」という主張を展開していた。だが、当時の「生長の家政治運動」が最も熱心に取り組んだのは憲法問題ではなく、「妊娠中絶反対」を主眼とした「優生保護法改正運動」だ。

 「中絶は一種の殺人行為である。 法律はこれを許しても神の世界では許されない」と唱える谷口雅春の下、当時の「宗教法人・生長の家」は、苛烈に「優生保護法改正運動」に取り組んだ。当然の事ながら、その運動は、宗教法人本体の運動だけにとどまらず、学生運動にも波及する。当時の『生学連新聞』(生長の家学生運動の機関紙)では、「憲法改正」ではなく「優生保護法改正」こそが最重要課題として掲げられるのが常であったほどだ。

 運動は一定の成果を見せ、当時生長の家組織候補として自民党内で有力な地位を占めつつあった玉置和郎氏や村上正邦氏の尽力もあり、国会での議論の対象にもなり、改正法案が上程されるまでにこぎつけた。しかし、こうした動きは、障害者団体や、当時勃興しつつあったフェミニズム運動の猛烈な反発を生み、ことごとく頓挫してしまう。ついに1983年(第一次中曽根内閣時代)、自民党政務調査会優生保護法等小委員会は、「優生保護法改正は時期尚早」との結論を出し、国会での法改正の道は完全に絶たれるに至った。その直後の1983年10月、生長の家は突如「政治運動撤退宣言」を出し、優生保護法改正運動のみならず、あらゆる政治運動から撤退してしまう。