移民・難民問題を現実的な政策の中で定着させるためには、人道主義や、異質な他者との共生といった理想を掲げつつ、以上のような受け入れ、同化のプロセスについての定量的な評価が必要になるだろう。逆に言えば、そのような定量的なプログラムなしに、受け入れについての社会的合意を得るのは、難しくなってくるのかもしれない。

 日本は、移民や難民の受け入れに消極的である。地理的な条件や、歴史的な背景があるとしても、今後もこのような政策を続けられるとは限らない。人道的な視点からの、諸外国からの批判も避けられないだろう。

オバマ米大統領主宰の難民サミットで演説する安倍首相
=9月20日、ニューヨーク
オバマ米大統領主宰の難民サミットで演説する安倍首相 =9月20日、ニューヨーク
 一方、日本人の中に、外国からの移民・難民の受け入れについて、根強い抵抗感があることも事実である。そのような感情を無視して積極的な政策を進めても、人道主義においては先進的とみられていたドイツの事例を見てもわかるように、どこかで揺れ戻しが起こることは避けられないだろう。

 日本においても、移民・難民を受け入れるとして、どれくらいの数を、どの時期に受け入れられるのか、その際の社会的コストは何か、逆にどのような効用があるのか、といった議論を、冷静に、定量的に始める時期が来ている。そのような定量的モデルがあって初めて、受け入れについての合意形成もできるだろう。

 ところで、このような、移民・難民受け入れの定量的モデルに基づく議論は、必要であるが、同時に、「パンドラの箱」を開くことになるのかもしれない。

 災害現場で手当てなどの優先順位を全体の最適を考えて決める「トリアージ」の概念は、広く行き渡っている。

 移民・難民の問題も、それを定量的に論じると、結局は「トリアージ」と同じように、どのような政策が「最適」なのか、という議論につながる。「誰にとっての」最適かという議論を抜きにしても、これは、現代社会において、潜在的に非常に困難な問題につながる道筋である。システムにとっての「最適」を考えることが、個々の人間にとっては、厳しい結論を導く可能性があるのである。

 似たような課題は、至るところにある。たとえば、生活習慣と病気との関連を論じたり、医療費の使い方の効率化を考える「公衆衛生」の分野は、一見、「やさしさ」に満ちているようでいて、実は背後には冷徹な「全体最適化」の論理がある。極論すれば、社会の効率化のために、事実上ある種の患者さんの健康悪化、寿命の短縮には「目を瞑る」という側面を、どうしても含む。