「外交は無形の戦争」とした蒋介石


 平成24年に出版した拙著『蒋介石の外交戦略と日中戦争』(岩波書店)で明らかにしたように、他国からは二国間戦争、地域紛争と見られていた昭和12年7月7日からの日中戦争は「外交は無形の戦争」であり、「有形の戦争よりもその効果は上である」と主張する蒋介石の外交戦略の中で、アジア・太平洋戦争の勃発による第二次世界大戦の一部に組み込まれていった。

 蒋介石は昭和16年12月8日の日本の真珠湾攻撃、それにともなう日米開戦を知ると、「抗戦四年半以来の最大の効果であり、また唯一の目的であった」と自らの日記にその逸(はや)る心情を綴った。それは、蒋が最も待ち望み、ローズヴェルト大統領に対する密着外交によって、アメリカに強く、また執拗に働きかけていたことでもあった。

 蒋介石は開戦の翌9日午後5時、自ら国防最高会議常務会議を招集し、「英米諸友邦」と共に「対日宣戦」をおこなうことを即座に決定した。蒋介石はその後中国が連合国側の一員であり、日中戦争が第二次世界大戦の一部であることを各所で強調していく。
激しい表情でラジオ演説する重慶時代とみられる蒋介石
激しい表情でラジオ演説する重慶時代とみられる蒋介石

 外交的側面からいうと、1942(昭和17)年10月の英米との不平等条約の改正(主に治外法権)、アジア・太平洋戦争直後からの「四大国」の地位の確保は、戦争という局面がなかったら達成は困難なことであった。このように、日中戦争が二国間戦争という枠組みからはなれ、国際化したことが中国の勝利に大きく貢献したことは否めない。

 しかし、このことが日中戦争の戦後処理を曖昧にするという結果を招いたこともまた事実である。

 中国国民党の機関紙であった中央日報は1946年5月3日、東京裁判が始まったことを伝える報道をしているが、この時日本の戦犯がドイツの例に倣(なら)って極刑になることを望むと論評している。

 また、南京大屠殺(大虐殺)の責任者を橋本欣五郎であるとの認識を示している。しかし、橋本は判決において南京事件関連は無罪となり、絞首刑を免れ、終身刑となっている。1948年11月13日付中央日報は「東京国際軍事法廷」のこのような判決結果を記事として載せているが、淡々と事実関係を報じただけで、論評や批判はおこなっていない。