中華民国は東京裁判に無関心


 また、当時の中国の東京裁判報道からわかることは、アメリカ主導の東京裁判には極めて無関心、もしくは不介入の対応をしたことである。直接の関与は南京の住人数人を証人として訪日させたことと南京地方法院の調査報告書を証拠として提出したことくらいであった。

 しかも、それもアメリカからの要請によっておこなわれたことであり、自主的な関与とはいい難い。管見の限りでは、中国の新聞の「東京裁判」についての本格報道は1946年8月17日付に見られるだけである。その理由は、アメリカの強い報道管制の中で与えられた情報のみを間接的に得て伝えていたことが考えられる。

 一方で、張憲文主編・胡菊蓉編の『南京大屠殺史料集24 南京審判』に見られるように、国民政府国防部による南京軍事法廷におけるBC級裁判に関する報道は開廷当初の1946年中には被告・谷寿夫の風貌や表情までも記事にするほど詳細に報道されていた。

 しかし、中国共産党と国民党の内戦の激化という中国の政治情勢の激変によって、それは極めて簡単でおざなりなものとなっていったといわざるを得ない。国民政府は戦犯の追及を簡素化、釈放していくことで日本との新たな外交関係を構築しようとしたのである。

 すなわち、中国においては、南京事件は日本以上に一般人民には知られていない歴史事象であった。中国共産党が1945年4月20日に採択したいわゆる「歴史決議」においても、続いておこなわれた抗日戦争の総括となる朱徳の軍事報告「解放区の戦場を論ず」(4月25日)においても、南京事件に関する内容は見ることができない。

 また、国共内戦に勝利した共産党が中華人共和国を建国して23年後の1972(昭和47)年9月、田中角栄総理の訪中による日中国交正常化交渉においても、周恩来は日中戦争の最大の被害の例として「三光政策」を出したが、南京事件は問題とはならなかった。