中国共産党の「歴史改竄」


 中国共産党の機関紙である『人民日報』が初めて南京大虐殺の特集記事を出したのは、1982(昭和57)年8月2日のことであった。その原因は、日本の歴史教科書をめぐる誤報にあった。

 同年6月26日付の新聞各紙は、文部省が検定で日中関係に関して「日本軍が侵略」を「進出」などと書き改めさせたと報じた。後に「誤報」と明らかになったが、6月30日付人民日報は「日本文部省が検定した教科書は歴史を歪曲し侵略を美化する」という記事を掲載した。

 そして、8月2日には南京事件の特集「どうして歴史を改竄(かいざん)することができるのだろうか―日本軍の南京大虐殺実録」を組み、日本兵が中国人の生首をぶら下げているなどの写真を掲載してその惨状を報じ、日本政府が「歴史を正視」すべきであると強調した。

 さらに、8月15日付では、社説で日本の教科書の「改竄」を批判し、南京ばかりでなく、日本がシンガポールやフィリピンでも「大虐殺」をおこなったと激しく非難した。そして、鄧小平は南京市郊外に「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)」を建設することを指示した。1985年8月15日にオープンした同館の入り口には「遇難者(被害者)300000」の文字が刻まれ、現在に至っている。

 これら人民日報の記事には大変大きな「歴史の改竄」がある。それは、南京事件が「中国の軍隊の激烈な抵抗」の末起きたと書いてあることである。

 中国共産党は、抗日戦争を「偉大な中国の軍隊と人民の勇敢さ」と「光栄な犠牲」によって勝利を得たと語ってきた。南京事件もその物語の中に組み込もうとしているが、それはとても困難な作業である。

 すなわち、南京事件が起きた12月13日の未明、南京を守っていた中国の正規軍は、蒋介石の撤退命令によって、揚子江(長江)を渡って退散し、日本軍が突入したときに残っていたのは逃げ遅れた兵士と一般市民、そして平服に着替えて市民になりすました便衣兵のみであったのである。いわば、日本軍は無血入城した訳であるが、その事実を日中両国共にいまだに正視しようとしない。
日本軍の南京攻略を前に軍幹部を引き連れて早々に重慶へと退避した蒋介石(左から2人目)。南京には衛戌軍の兵隊と多くの住民が置き去りにされた
日本軍の南京攻略を前に軍幹部を引き連れて早々に重慶へと退避した蒋介石(左から2人目)。南京には衛戌軍の兵隊と多くの住民が置き去りにされた

 また、南京事件はその後中国の歴史教科書に一節を設けて特集されるようになるが、そこには、一律南京陥落後に国民政府が首都を重慶に移したと書かれている。これは、日本のほとんどの歴史教科書もおかしている誤った認識である。

 国民政府による重慶への首都移転は、南京事件の以前に実行されていた。南京はいわば「棄都」であり、南京の民は「棄民」であった。日本は、南京を首都と報道し続け、首都陥落を大々的に報じ、日本全体が祝賀ムードに酔いしれた。その時の認識が正されず、今日の歴史教科書にまで反映され続けていることには驚きを隠せない。