南京撤退にのぞく蒋介石の遠望


 では、なぜ蒋介石は日本軍が南京を取り囲み、突入の構えをしている情況の中で、撤退命令を出したのか。その解明は、南京事件がなぜ起きたのかを考える上で、重要な意味を持つ。

 1937年7月7日の盧溝橋事変勃発後、蒋介石は国内の抗日民族統一戦線結成要求の盛り上がりへ対応するために、武力行使を余儀なくされていく。しかし、同年5月にアメリカが「中立法」を拡大解釈し、正式に成立させたことへの対応に苦慮するようになる。すなわち、対日宣戦布告をすれば、アメリカからは兵器・弾薬・軍用器材などの援助はもとより、財政的な支援も望めない状況となる。

 それは、日本も同じことであった。日本は、石油やくず鉄など多くの物資をアメリカからの輸入に頼っていた。この点では、日中の利害は一致していた。そのため、日中戦争は双方共に宣戦布告をしない、歪んだ戦争となったのである。

 アメリカの国務長官であったハルは、8月23日公式に声明を発表し、日中双方に停戦を呼びかけ、アメリカの立場を明確にした。その後国民政府は8月30日と9月10日国際連盟に声明文を提出して、①中国は「平和を愛護する方針」には変りがないが、②事の成り行きによっては「自衛を実行せざるを得ない」として、その「苦衷」を世界に向けてアピールしていく。

 これに対して国際連盟はこの声明文を加盟国全体に送り、アメリカを代表とする「中日問題諮問委員会」において日中紛争の審議を開始する(中央日報9月11日付)。

 このような国際情勢の中で、日本の上海・南京・広州など主要都市に対する空爆は日増しに激しくなり、1937年9月22日の第二次国共合作成立以後中国国内の抗日の機運も高まっていく。しかし、英米はこの時期あくまでも日中双方に対して停戦と和平を勧告する姿勢を貫く。蒋介石が上海と南京の防衛戦で見せた作戦の不徹底の原因には、このような英米の姿勢に対する「苦衷」があったといえる。

 この時期蒋は各所で日本に対する国際制裁の必要性を訴え、そのことが国際平和につながることを強調した。また、十月二十九日国防最高会議において、首都を四川省重慶に移転させることを決定した。蒋は、2年前から奥地建設に力を入れ、不測の事態に備えていたのである。この政策は、蒋介石の「持久戦論」実践のための戦略であったということができる。

 そのため、蒋介石は11月3日ブリュッセルで開幕した「九国条約会議」の決定に強い期待をかけた。この時期、蒋介石は共産党勢力の「跋扈」を「内憂日ごとに増大する」として警戒感を強めていた。すなわち、蒋にとって英米の協力を得られないままでの対日全面抗戦は、共産党およびソ連の影響力を増大させることになるため、なんとしても避けなければならなかったのである。