主要国の鈍い反応


 しかし、蒋介石の期待に反して、九カ国条約会議は11月15日「宣言」を発表し、あくまでも「中立」の立場を堅持する姿勢をみせ、日中両国の「武装衝突」の「継続進行」は会議参加国の「生命財産」に重大な「損害」を与えているとし、「即時停戦」を合意勧告した。

 このような九カ国条約会議に対し、国民政府代表として出席した顧(こ)維鈞(いきん)は、11月23日の会議での演説で強い不満と憤りを表明し、「各国が物質上の援助を中国に与え、並に兵器・弾薬および金銭的援助を日本に与えることを停止すべきこと」を要求した(新中華報11月24日付)。
米スタンフォード大学フーヴァー研究所で公開されている「蒋介石日記」
米スタンフォード大学フーヴァー研究所で公開されている「蒋介石日記」

 それでも翌日同会議は、あくまでも「商務財政上の相互利潤の目的」から軍縮と「非武力」の原則を貫く必要を強調した上で、「無定期延会」を宣告して閉幕したのであった。日本はこのような九カ国会議の状況を具(つぶさ)に報道し、「支那事変」に対する国際制裁がおこなわれないことを、当然のことと受けとめたのである。

 日本軍による南京攻略は、中国にとっては日本に対する国際制裁の可能性が望めなくなったと同時に、各国が強く和平と停戦を勧告するという状況の中でおこなわれていった。 1937年11月20日、国民政府は首都の重慶移転を公式に発表した。同日公布された「国民政府遷都宣言」には日本との戦いは「持久戦」になるため、抗戦を継続するためには「国際的同情」と「民衆の団結」が必要であることが述べられている。蒋介石にとって、「持久戦論」は長年の持論であるが、「持久戦」は国際的、特に英米による支援獲得のための闘いをも意味した。

 蒋介石は九カ国条約会議が無期延期を決定して閉会した11月24日、唐生智(とうせいち)を南京衛戌(えいじゆ)(護衛)司令長官に任命し、その総指揮を任せる。28日唐は外国公館・教会・報道関係者らに「南京と存亡を共にする」覚悟を語った。そのような状況下で蒋介石は、12月7日南京を離れ廬山へと移る。日本の新聞各紙は蒋の「離京」を一斉に「都落ち」と論評して、翌8日付で大きく報じた。

 12月11日、日本軍は南京城外中山陵を占領する。蒋介石は、南京撤退命令の文書を11日の午後に腹心の部下であった陳布雷(ちんふらい)と秘密裏に作成したとその日記にはある。この時蒋は南京の戦況を、雨花台(うかだい)、中山門(ちゆうざんもん)、富貴山(ふうきさん)砲台は日本軍の手に落ち、紫金山(しきんざん)はなお中国軍の手にあり、光華門、通済門(つうさいもん)は平穏であるとの報告をうけていた(「蒋介石日記」12月11日)。