3年がかりの持久戦を覚悟


 中山門には軍官学校があり、10日日本の空爆を受け、壊滅的に破壊されている。このことが蒋介石に与えた影響は大きかった。蒋にとって、軍官学校は特別の存在であった。蒋はこの日、日本軍が疲弊し、国際干渉がおこなわれるまで「準備に3年かかり、それまで苦闘しなくてはならない」との決意を述べている。

 すなわち、蒋介石は中国の最高軍事指導者として、南京完全破壊の前に撤退を決定したということができる。その理由には、①日本と南京衛戌軍との軍事力の差に対する認識②ソ連の軍事援助の拒否、そして③アメリカの中立法と不戦条約の枠組み維持という形での国際的援助が期待できない情況であったこと―が考えられる。さらに蒋は、南京で徹底抗戦をおこなえば、共産党勢力が拡大することになると怖れていた。

 蒋は、日本との戦争を持久戦に持ち込めば必ずや国際世論を味方につけることができると信じていたため、最終的には勝利できると予測していた。また、ドイツの駐華大使であったトラウトマンの和平工作も秘密裏に動いていた。そのため、一時的に撤退し、南京を日本軍の手に落としても、共産主義がはびこるよりは取り戻しやすいと判断したと考えられる。

 12日日本軍は中華門に進撃し、中山門から城内に攻め込む。このような状況の中で午後3時南京司令部に「命令」が下され、五時南京を護衛していた唐生智は各高級将領会議を招集し、蒋介石の撤退命令を伝える。将校たちに動揺はなく、速やかに撤退の準備に入った。

 しかし、この命令は、一定の地位以上の兵士までしか伝わらなかった。逃げ遅れ、捕虜となった兵士が多かったのはそのためである。夜中の11時、南京衛戌軍は撤退を開始し、13日未明に撤退を完了する。同日日本軍は、正規軍が退散した南京を占領する。

 蒋介石は南京撤退に関する宣言を無線伝達で送信したのであるが、抗日戦を継続させ、持久戦に持ち込むための撤退であることを強調している。蒋がこの時期最も望んだことは、各国の利権が絡む国際都市であった上海や南京の日本軍による占領に関して、反対する国際世論が起き、各国に自然発生的に日貨排斥運動や日本との協力関係を断絶する動きがおきてくることであった。

 しかし、日本はこの時期、アメリカの方針があくまでも「支那事変」を戦争とは見なさず、「中立法」の適用をおこなわず、「不介入」政策を堅持するものと確信していたのである(東京朝日新聞12月8日付)。