通州虐殺事件


 通州虐殺事件とは、昭和12年7月29日、中国保安隊によって、幼児十数人を含む二百数十人の、わが守備隊、居留民が虐殺された事件である。

 虐殺の状況について、東京朝日新聞、極東国際軍事裁判(東京裁判)における目撃者は、次のように述べている。

一、東京朝日新聞

 8月4日付(3日発行)夕刊は、第一面で、見出しに「恨み深し 通州暴虐の全貌」「保安隊変じて鬼畜」「罪なき同胞を虐殺」「銃声杜絶(とだ)え忽(たちま)ち掠奪」「宛(さなが)ら地獄絵巻!」「鬼畜の残虐言語に絶す」を挙げる。
通州事件の現場と救援の日本軍部隊に保護された邦人ら(『支那事変聖戦写真史』忠勇社、昭和15)
通州事件の現場と救援の日本軍部隊に保護された邦人ら(『支那事変聖戦写真史』忠勇社、昭和15)
 本文では「あゝ何といふ暴虐酸鼻、我が光輝ある大和民族史上いまだ曾てこれほどの侮辱を與(あた)へられたことがあるだらうか」、「男女の区別さへ付かぬ目を蔽(おお)ふ惨憺たる有樣である、身體(しんたい)の各所を青龍刀で抉(えぐ)られ可憐な子供、幼児迄も多数純真な魂を奪はれてゐるではないか、又東門の他の池にも二十九名の惨殺死体が抛(ほう)り込まれ、これ等はいづれも縛られた儘でこゝまで連れられ嬲(なぶ)り殺しに遭ったのだ、近水(きんすい)旅館は日頃保安隊の無理を聞いてゐながら十一名の女給達が全部裏の池に投げ込まれ人情を絶した鬼の仕業だ、在留邦人中僅かに百廿一名が警備隊に収容されたのみで数百余名は虐殺されたのだ、生き残った者はいづれも銃声と共に支那人に化け女は髪を短く切り日頃親しい支那人の家にかくまはれた者ばかりで、一瞬の間に気転を利かして危機一髪を逃れた運命の導きである、併し子を呼び親を搜して街を彷徨(さまよ)ふ姿の哀れは真に言語を絶した惨状である」と述べている。

二、極東国際軍事裁判

 「極東国際軍事裁判速記録」第五巻で、当時の目撃者は次のように供述している(抜粋)。

 (一)萓嶋高(元陸軍中将、救援のために通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長)
 ―旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七、八歳迄の女七、八名は皆強姦され、裸体で陰部を露出した儘(まま)、射殺されて居りました。其の中(うち)四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐました―

 (二)桂鎮雄(元陸軍少佐、第二連隊の歩兵砲中隊長代理)
 ―錦水楼の門に至るや…男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣の様でありました―
 ―私は一年前に行ったことのあるカフェーヘ行きました。…一つのボックスの中に、素っ裸の女の屍体がありました。これは縄で絞殺されてをりました。カフェーの裏に日本人の家があり、そこに二人の親子が惨殺されて居りました。子供は手の指を揃へて切断されてをりました―
通州事件でシナ兵に惨殺された邦人の遺体。遠目にはわからないが、それぞれの遺体には日本人に想像できない残忍な殺害の手口が、ありのままに残されていた(支那駐屯軍北平憲兵分隊撮影)
通州事件でシナ兵に惨殺された邦人の遺体。遠目にはわからないが、それぞれの遺体には日本人に想像できない残忍な殺害の手口が、ありのままに残されていた(支那駐屯軍北平憲兵分隊撮影)
 (三)桜井文雄(元陸軍少佐、第二連隊小隊長)
 ―東門の近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました―

三、「北疃村」は通州虐殺の引用

 李慶祥氏は朝日新聞で「事件の後しばらくは、子を探す親、親を探す子たちの泣き声が響いた。村は死んだ。人類史上でも珍しい事件だ。今の日本人には理解出来ないかも知れないが、鉄のような(確かな)事実なのです」と述べている。

 が、この表現は通州虐殺事件に関する東京朝日新聞の「子を呼び親を搜して街を彷徨ふ姿の哀れ」「あゝ何といふ暴虐酸鼻、我が光輝ある大和民族史上いまだ曾てこれほどの侮辱を與へられたことがあるだらうか」とほぼ同じ表現である。

 また、李徳祥氏が述べた強姦、幼児虐殺、目玉の抉り取り、井戸(池)への投げ捨てなどの虐殺方法も、東京朝日新聞などが述べている通州事件におけるシナ人の虐殺行為のコピー発言である。日本人にはシナ人のような虐殺の習慣はない。

 通州虐殺事件に関する東京朝日などの新聞記事、東京裁判での目撃者の証言を転用したものである。