上念氏の新著によれば、きちんと「国の借金」を資産と負債でバランスよくみれば、実質的な借金はたかだか100兆円にしかすぎないことが指摘されている。しかも最近の経済の好転とそのリフレ政策(一定の物価上昇を目標にする政策)によって、事実上「消滅」していることもあわせて解説されている。つまり大新聞やテレビなどでの財務省発の報道は、事実誤認を国民に伝える役割を果たしているとさえいえるのだ。

 では、そもそもなぜ財務省は間違えた財政認識を持っているのだろうか。また大新聞の記者たちは、なぜ財務省の報道をそのまま繰り返すだけなのだろうか。
東京・霞が関の財務省の正門前
東京・霞が関の財務省の正門前
 上念氏の新著では、エリート官僚やエリート記者たちが、実は「エリート」ではないことが明らかにされている。例えば、日本の官僚のトップは財務省の事務次官だが、彼ら(女性はいない)のほぼ全員が東京大学法学部卒業者である。これだけ見ると、「東大=エリートだろう」と思う人たちが大半だろう。しかしエリートは本来知的な意味での選ばれた人たちであるはずだ。残念なことに、上念氏が指摘するように、大学の偏差値ランキングと、知性や専門性とは必ずしも連動していない。むしろ、経済問題を扱う省庁(財務省)のトップが、経済を専門にしていない法学部卒業者であることはどう考えても無視できない問題だろう。

 海外のエリート官僚たちと比較しても日本の「エリート」官僚の低学歴&低学力は突出していて、むしろ先進国型よりも「開発途上国」に多いと、上念氏は指摘する。私見では、財務官僚と同省出身の政治家たちの多くは、「嫉妬」が強い人たちが多い。試験の点数は満点という上限がある。では満点ばかりとる人間たちが集まり、そこで出世や自分のプライドをみたすには、どうすればいいだろうか。日本のエリートの評価が、大学卒業までの試験の点数で決められるとすれば、満点以上の客観的な評価は当然「ない」。このため客観的ではない評価に、日本型のエリートたちは走るのである。努力さえすれば満点はどんな人でも到達可能かもしれない。そこで彼らは、特定の大学の特定学部出身者(実際にはさらに細分化されていて、特定の指導教官についていたものなど)が「エリート」であるとふるいをかけた。さらにそれでも競争者が多いので、とるになりないことで足を引っ張り合い、「嫉妬」で他者を排除する手法が磨かれていく。

 このような醜い「エリート」競争こそ、財務省だけではなく、多くの日本の組織の頂点で行われていることだ。

 官僚だけではなく、大新聞もそうである。もし仮にやる気と公平性の富んだ記者がいて、財務省の発表をそのまま鵜呑みにはせずに、そこに上念氏が指摘したような経済・会計では常識的な解説を加えたとしよう。おそらくそのような行為は、まわりの「エリート」たちからは恰好の足をひっぱる材料になるだろう。ブラックな白鳥の中に白い白鳥がひとりいれば、全員で叩きまくる。それが日本型エリートの組織の特徴だ。

 日本型「エリート」たちが勝手に嫉妬と足の引っ張り合いを醜く演じるのはかまわない。だが、問題はそれによって多くの国民に実害が及ぶことだ。上念氏の新著は、この日本型エリートたちの醜悪さと問題性を明瞭に描いている。