しかし、成長するにつれ同じ環境下でも猫は猫、虎は虎に育つものである。死刑廃止論者は、教育すれば、みな牙をむかぬ猫や虎に育つと考えているようであるが、勉強不足も甚だしい。加害者弁護人は「更生の可能性あり」「反省している」との理由づけをするが、その根拠は極めて乏しいものである。再び罪を犯す者が半数いることが、その証左であろう。これは明らかに彼らの誤った判断である。

 しかしながら、弁護人や裁判官から、今までこれらの現象についての反省を聞いたことがない。「更生の可能性あり」「反省している」との根拠をどこに求めて判断しているのだろうか。無責任と言う他はない。誤判ともいえるこの現象を、検証することもなく放置し今日に至っている。この風調が、弁護人や裁判官に対して信頼を失ってきている。早く正すべきであろう。理想像や望みを語るだけでは社会秩序は保てない。「バカは私」及び「日弁連の思考」から、思い起こすは「三つ子の魂 百まで」の諺である。

 「死刑は執行したら取り返しがつかない刑罰だ。必ず間違いは起きるから死刑制度を廃止しろ」との主張には無理がある。冤罪は死刑制度だけの問題ではない。すべての裁判で起こる可能性はある。冤罪をなくさなければならないのは当然である。だが一方、全く疑う余地のない犯罪もあるのだ。

 日弁連は、常套句の如く「免田栄さんのような冤罪事件があるから死刑は廃止だ」と言う。しかし、彼らが冤罪と言っている事件は、半世紀も前の事件である。現在の進歩した科学的捜査手法では起こり得ないことだ。日弁連の主張は、まるで「昔の天気予報は不正確で社会的損失が生じた。だから現在の天気予報を廃止しろ!」と言っているのに等しい。時代錯誤の言いがかりとしか思えない。冤罪を防ぐには、最近の科学的捜査手法と共に「疑わしくは罰せず」を守れば良いだけの話である。
死刑廃止の宣言案をめぐり激しい議論が展開された人権擁護大会=10月7日、福井市
死刑廃止の宣言案をめぐり激しい議論が展開された人権擁護大会=10月7日、福井市
 すなわち冤罪は、捜査段階での手法や運用の問題であり、死刑制度そのものの欠陥ではない。死刑廃止論者は、「運用の問題」と「制度の問題」を、ごっちゃ混ぜにした勉強不足からのものに他ならない。問題をすり替えようとしているのである。

 罪の重さと罰の重さは、常に等しくなければならないにも関わらず、日弁連は「罪刑均衡の原則」には触れようとしない。死刑廃止論に不都合が生じるからであろう。人の命の重さは平等であるというならば、犯人の命を重んずると同等に被害者の命についても語るべきであろう。なぜ日弁連は避けるのか説明がない。このように偏った見方しか出来ない日弁連は極めて危険である。