被害者が死刑を求めるのは、復讐心に燃えてのことだと、死刑廃止論者は決めつけている。しかし、そんな単純なものではない。遺族は愛する家族が生きて帰ってくれることを、まず望んでいるのである。事件当初は犯人に死刑をなど思ってもない。犯人を死刑に処しても、愛する家族が生きかえることがないことは、重々承知している。にもかかわらず、なぜ死刑を求めるかは、愛する者の命を犯人の命より軽く扱われることに怒りを感じるからである。

 やられたから、やり返すと言う単純な復讐感情だけではない。犯人に死刑を求めるのは、被害者の命を粗末に扱う社会的不平等に対する怒りからであり、愛する家族を供養するきっかけ作りなのである。遺族は死者を供養しながら、再び頑張って生きていこうとする気力を取り戻すのである。それは、赤穂浪士が吉良上野介を討った直後、主君の墓参りをしたのと同じ「供養」の心なのである。

 このことで命の平等性が保たれる社会に安心し、理不尽なことなく安全で秩序ある社会維持に繋がるのである。こうした社会秩序維持のための応報感情から、死刑を求めているのである。弱肉強食社会は決して許されるものではない。社会秩序の維持を願ってのことなのである。死刑は遺族に供養の時を与え、遺族の心を支え、遺族の社会復帰に必要な行事なのである。死刑は犯罪への復讐感情にとどまらず、遺族の社会復帰と社会秩序維持のために必要な行事なのである。日弁連は復讐感情と、応報感情の区別も出来ない残念な集団である。

 今回の日弁連の宣言は、2020年に日本で刑事司法の専門家が集う国連会議があるため、急きょ用意した外交辞令からのものであり、日本国民を思ってのことではない。日弁連は、数年前から死刑問題について、全社会的議論をしようと提案してきた。しかし集まるのは死刑廃止論者がほとんどで、形式的なものに終わっている。大会出席者の発言からも明らかで、本来の全社会的議論には至っていない。日本国民の多くはそんな議論すら知らない。しかし日弁連執行部は、全社会的議論を行ったことにして、今回「死刑廃止」を決定したのである。それもこれも対外的面子を重んじてのことであろう。

 今回の人権大会の決定は、真にお粗末であった。弁護士総数3万7千余人のうち、出席者はたった2%(786人)に過ぎず、その内の賛成者は69%(546人)、反対12%(96人)、棄権18%(144人)であった。たった2%の出席者でもって、日弁連は全総意として決定したのである。余りにも乱暴で無茶苦茶な団体である。驚くほかはない。このような乱暴な団体が、他に有るであろうか?お粗末な限りである。これが民主主義を唱える日弁連の姿であり、警戒せざるを得ない。