日弁連は「被害者遺族の厳しい感情は自然であり、被害者支援は社会全体の責務であり、何より心を致さねばならないのは、最愛の人を亡くした遺族の存在だ」と述べるものの、なぜ被害者や遺族を落胆させ、追い打ちをかけるようなことをするのだろうか。被害者の尊厳を無視して被害者支援もあるまい。

 死刑を求めるのは、犯人への単なる復讐感情にとどまらず、社会秩序を維持する応報感情から来るもので、遺族は社会秩序の維持を願いながら社会復帰しているのである。犯人を死刑に処することで、遺族は供養の時を得、自らの心を支え、社会復帰しようと努力できるのである。それを支援するのが被害者支援ではないのか。しかし、それを否定するように、日弁連は「死刑廃止」を決めた。

瀬戸内寂聴氏
瀬戸内寂聴氏
 これでは被害者支援どころか、被害者いじめである。犯罪被害に遭っていないからであろう。ならば被害者の声に耳を傾けるのが普通の人間であろう。なぜ無視し逆撫でするのだろうか。私は時に、死刑廃止論者の家族が殺害されることを願う時がある。それで初めて、彼らは被害者の理解と支援策が浮かぶのであろうと思うからである。それは非常に哀しく残念なことである。

 「バカども」発言のビデオメッセージに対して、寂聴さんは「日弁連から頼まれ、私は即、収録に応じた発言の流れから、被害者のことではないと聞けるはずである、老体に似合わぬみっともない舌禍事件を起こしてしまった、深く反省している、言葉に敏感な弁護士達は、そのまま流すはずはないだろう」と語っている。しかし話の流れは日弁連の依頼を受けた時から始まっており、文学者なら行間に意を込め表現するのが普通である。読者はその行間を読んで感動してきたのである。

 想定外とは言い逃れであり、読者を欺く情けない発言である。僧侶としてもいかがなものか。読者が行間を読んだ事柄が、寂聴さんの本心であり、読者は怒りを覚えたのである。寂聴さんが「言葉に敏感な日弁連は、そのまま流すはずはないだろう」と考え行動するのは、読者を欺くことであり、欺かれたと感じた聴衆が怒るのも当然である。

 日弁連は寂聴さんの隙に付け入り、利用したのである。率直な寂聴さんゆえに、狡猾な日弁連に利用されたのであろう。僧侶でも何でもかまわない。利用できるものは何でも利用する達人たちである。寂聴さんは油断しその犠牲者となり気の毒と思う。