卑弥呼の墓

 私は卑弥呼の都、邪馬台国は、朝倉市を中心とする地域にあったと考える。ただ、卑弥呼の墓は、福岡県の糸島市の「平原王墓」であろうと考える。これと同じ考えは、すでに、医師の中尾七平氏が、その著『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1998年刊)で述べている。

 また、考古学者の原田大六氏は、平原王墓を天照大御神の墓とする。同じく考古学者の奥野正男氏は、平原王墓を卑弥呼の墓とする。考古学者の高島忠平氏も、平原王墓は卑弥呼の墓である可能性があるとする。
福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓(Wikimedia)
福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓(Wikimedia)
 私が平原王墓を卑弥呼の墓であるとする根拠は、拙著『卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!?』(勉誠出版、2016年刊)のなかで、やや詳しく述べている。その要点をまとめれば、次のようになる。

(1) 平原王墓出土の鏡は、主に方格規矩鏡と内行花文鏡で、これは邪馬台国時代の鏡とみるのにふさわしい。
(2) 平原王墓出土の巨大内行花文鏡を、原田大六氏は日本神話にあらわれる「八咫の鏡(やたのかがみ)」とみて、その根拠を詳しく述べている。かなり説得的である。
(3) 都の地と墓の地とが離れているケースは、古代においてはよくある。例えば、第12代景行天皇や第13代成務天皇はいずれも、滋賀県にあった「高穴穂の宮」で亡くなり、陵は奈良県にある。第15代応神天皇の都は奈良県にあり、陵は大阪府の古市古墳群にある。第35代の斉明天皇は、福岡県の「朝倉の宮」で亡くなり、陵は奈良県の高取町にある。
(4) 「平原王墓」のある伊都国の地は『魏志倭人伝』によれば、女王国に統属している地であり、特に「一大率(一人の統率者)」を置いた地であった。
(5) 「平原王墓」の出土品は、断然他を圧倒している。わが国では弥生時代~古墳時代を通じ、約5千面の青銅鏡が出土している。その5千面ほどの青銅鏡の面径の大きさのランキングのベストテンをとれば、次の表2のようになる。
 ベストテンの半分の5面は「平原王墓」が占める。

 また、一つの墓からの青銅鏡の副葬数のランキングのベストテンをとれば、次の表3のようになる。

 古墳時代になって、あれだけ多数の前方後円墳が発掘されながら、それらを含めても、弥生時代の「平原王墓」が、鏡の多数副葬のランキングにおいて、なお、第2位を占めるのである。副葬されている鏡の質と量とにおいて、「平原王墓」を超える弥生時代の墳墓が今後出現する可能性は、まずないといってよい。

(6) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について、「大いに塚をつくること径百余歩(約150メートル)」とある。この径百余歩は、すでに、考古学者の森浩一が指摘しているように「墓域(兆域)」と考えるべきである。
たとえば、『延喜式(えんぎしき)』の「諸陵寮」は、第15代応神天皇の陵の「兆域」を「東西五町(約545メートル)、南北五町」とする。応神天皇陵古墳の墳丘全長425メートルよりも、ずっと大きい。第38代天智天皇陵の「兆域」の「東西十四町、南北十四町」などは、一辺63.75メートルの墳丘の大きさを遥かに超える。
(7) 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき、徇葬(殉葬)の奴婢は百余人であった、と記されている。この奴婢の墓を求める見解がある。しかし奴婢の場合、死体を土にうずめるだけなので、墓は残らないと考えられる。

 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。

(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。
(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)
(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)
(4) 卑弥呼の墓はどこか。

 これらを、どれだけ統一的に説明できるかによって説の優劣が決まる。