(2)畿内説


 邪馬台国(やまたいこく)が日本列島のどこにあったのかという「邪馬台国論争」は、日本史上最大の謎のひとつと言っていい。「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)の記述をもとに、江戸時代からさまざまな意見が出され続けてきた。
2013年2月、考古学者らによる立ち入り調査が行われた箸墓古墳=奈良県桜井市(本社ヘリから)
2013年2月、考古学者らによる立ち入り調査が行われた箸墓古墳=奈良県桜井市(本社ヘリから)
 主張は大きくふたつに絞られる。邪馬台国は畿内、それも奈良盆地にあったとする説と、北部九州にあったとみる説だ。両説が重要視されるのは、奈良盆地はのちのヤマト王権発祥の地であること、また北部九州は紀元前以来、中国大陸や朝鮮半島の国々と長く深い交わりを結んでいたことが根拠となっている。

 倭人伝には、朝鮮半島にあった帯方郡(たいほうぐん)から邪馬台国へと至る方角や距離を記した「里程(りてい)記事」もある。しかし、これを実際にたどってゆくと、沖縄周辺の太平洋上に行き着いてしまう。つまり、倭人伝の方角や距離には錯誤があると判断せざるを得ないのだ。

 こうして、行き詰まりの様相も見せていた邪馬台国論争が新たな段階に入ったのは、戦後の考古学の進展があったからである。発掘調査によって列島各地から多くの遺跡・遺物が見つかり、邪馬台国の実像を解明していくうえでヒントとなった。

 吉野ケ里遺跡(佐賀県)は日本最大級の環濠(かんごう)に囲まれた遺跡で、「楼観(物見櫓)・城柵(ろうかんじょうさく)、厳かに設け」という倭人伝の記述をほうふつとさせる発見として、北部九州説を一躍クローズアップさせた。ただし、吉野ケ里遺跡が最も繁栄したのは弥生時代中~後期で、邪馬台国の時代(弥生末期、2世紀末~3世紀前半)とはずれがある。

 これに対し、畿内でも大きな発見が続いた。唐古・鍵(からこかぎ)遺跡や纒向(まきむく)遺跡(いずれも奈良県)での調査だ。しかも、これらの遺跡は時代も邪馬台国と合う。箸墓(はしはか)古墳をはじめ古墳も数多くあり、女王・卑弥呼(ひみこ)が住む宮都があった場所に似つかわしい。

 畿内説が有力とされるもう一つの理由は、倭人伝の人口に関する記述だ。九州への玄関口だった末廬国(まつらこく)は現在の佐賀県唐津市・東松浦郡周辺とされ、人口は「4千戸」とある。そして、福岡平野にあったとみられる奴国(なこく)は「2万余戸」。これらに対し、邪馬台国は「7万余戸」である。西日本最大の耕地を抱えていた奈良盆地こそ、邪馬台国の所在地候補とするにふさわしい。