(3)北部九州説


 福岡市博物館(早良区)で常設展示されている国宝「漢委(倭)奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印をごらんになったことがあるだろうか。1辺2・3センチ、重さ約108グラムの純金製。西暦57年、福岡平野にあった奴国の王が中国・後漢に朝貢したおり、授けられたとされる逸品だ。
吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡
 金印のこの強烈なイメージが、所在地をめぐる「邪馬台国(やまたいこく)論争」にも少なからぬ影響を及ぼしている。紀元前後、日本列島を代表する王として外交にあたっていた奴国王は、約150年後の卑弥呼(ひみこ)の時代も同様の役割を果たしていたと想像し、邪馬台国は北部九州にあったのでは、と考えてしまうからだ。

 だが、弥生時代は政治的激動期だった。特に末期になると列島内の状況は大きく変わっていた。「魏志(ぎし)」倭人伝(わじんでん)には、倭国は内乱状態に陥り、卑弥呼が共立されたと記している。

 それは資源、とりわけ鉄素材の確保をめぐる主導権争いだったのではないだろうか。鉄器は人々の暮らしを飛躍的に便利にしたが、当時の列島内では生産できず、朝鮮半島から求めるしかなかった。鉄を安定的に大量輸入できる「強い政権」が必要とされて誕生したのが、卑弥呼率いる倭国連合だったと考えたい。

 とはいえ、北部九州説には新井白石や本居宣長以来の学問的積み重ねがある。松本清張や「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平ら著名人の支持もあった。だが現代の古代史研究者や考古学者はと見渡すと、表立って北部九州説を主張する人はほとんどいない。

 平成25年に死去した考古学者の森浩一さんは、「東遷(とうせん)説」を唱えた。最初、卑弥呼は九州で共立されたが、のち畿内に移ったと見るのである。弟子の一人で、桜井市纏向学(まきむくがく)研究センター所長の寺澤薫さんは「卑弥呼政権の権力母体は北部九州勢力と瀬戸内海沿岸勢力を中心として、近畿、山陰、北陸、東海各地方の局地的な勢力を結集して作り上げられた」(「森浩一の古代史・考古学」)と書く。卑弥呼の政権は、明治維新における「薩長土肥(さっちょうどひ)」のような連合政権だったというのだ。

 所在地についての探求も大切だが、政権の実態や構造を解き明かすことは、それ以上に重要である。最近の邪馬台国論争の推移を見ていると、そんな印象を抱いてしまう。