(4)ヤマト王権との関係 


 邪馬台国(やまたいこく)はその後、どうなったのか、またヤマト王権(大和政権)とはどのような関係にあったのかという謎に迫ってみたい。

 「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)によれば長寿を保った卑弥呼(ひみこ)も西暦248年前後に亡くなった。その後、男王が立ったが収まらず、卑弥呼一族の13歳の少女、台与(とよ)(壱与(いよ)とも)を共立したとある。その台与も266年、魏の後の王朝である晋(しん)に朝貢して以降の動静は不明だ。

 私たちがヤマト王権と呼ぶのは、律令国家(大和朝廷)成立以前の大和を中心とした政治権力のことで、特徴は各地に築かれた巨大前方後円墳。「古墳時代」という時代区分とも、ほぼ重なっている。その古墳時代は昭和30年代半ばまで、「4世紀に始まった」とするのが定説だった。邪馬台国の時代とは半世紀の時間差があるため、両者は別の政治勢力と考えられていた。

 ところが、その後の発掘調査の成果や年輪年代法など科学的な年代測定法の進歩によって、古墳の成立は「3世紀半ば」までさかのぼると考えられるようになってきた。最古の巨大前方後円墳である箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が、卑弥呼の墓であっても矛盾しなくなったのだ。

 奈良県天理市にある崇神(すじん)天皇陵は、その箸墓よりも2、3世代新しい時期の王墓とみられている。崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」(初めて国を治めた天皇)と贈り名されており、「実在したヤマト王権初代の王」とする意見もある。

 しかも崇神については、「古事記」に干支(かんし)で「戊寅年(ぼいんのとし)」に死去したと記されていて、これを西暦318年と見る考えがある。歴代天皇の系譜からも、第10代崇神と5世紀に中国・宋に使いを送った15代応神、16代仁徳天皇(倭の五王)らとの年代差は合理的だ。

 卑弥呼や台与からヤマト王権へは、それほど時間をおかず続いたのではないか。倭人伝にあったように、「卑弥呼は男弟(だんてい)が補佐して国を治めた」というヒメ・ヒコ制(女性が聖的な祭祀(さいし)を、男が俗的な政治を分担する)が台与の代にも続いていたなら、彼女の弟が崇神だったという大胆な推測も、荒唐無稽ではなくなってくるのだ。