トルコが邦人救出してくれたワケ


 昭和六十年(一九八五)三月十七日、サダム・フセインが「首都テヘランを含むイラン上空を飛行する全ての国の航空機は三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する」と緊急宣言を発表する。

 同時に、空港はイランからの脱出民で溢(あふ)れた。

 当時のイラン在住の邦人数は二百十五名。

 各国の航空機が優先的に自国民を搭乗させるのは、広い人道上はともかく、狭い人情としては理解できる。 

 ところが、イランへの日本の航空会社の乗り入れはない。

 自衛隊による海外への航空機派遣は違法。

 この非常事態に、二機の臨時便を日本人救出の為に用立ててくれた国はトルコであった。

 このニュースを知った多くの日本人は、トルコ側の真意が理解出来なかった。恐らく功利的な考えが大勢を占めたのではなかったか。

 ――日本政府がトルコに大金を払ったのだろう――。

 日本人の多くは、凡(およ)そ百年前のエルトゥルル号の一件を知らなかったが、トルコ側は覚えていてくれた。 

 その一件とは、明治二十三年(一八九〇)九月十三日、トルコ軍艦エルトゥルル号が嵐の為に和歌山県串本村紀伊大島沖で座礁沈没。

 大島の島民達は危険な地形をものともせず、身を呈してトルコ兵六十九名を救出、貧しい暮らし向きにも関らず食糧を提供すると共に介抱にこれ努めた。

 更に明治政府は軍艦二隻を提供し、生存者達をトルコまで送り届けた。

 医療費の支払いを申し出たトルコに対し、大島の医者達は遺族への見舞いに回すようにとこれを断った。

 成した善行を誇らぬのも上質の人の道なら、成された恩を忘れぬのもまた上質の人の道である。

 トルコ機による日本人救出劇で、日本人は久しく忘れていた二つの道を知った。

 エルトゥルル号の一件は、百年を経過して広く日本人の知るところとなった。
 今ひとつ、エルトゥルル号の影に隠れてしまったが、トルコの人々が日本に感じていた恩義があった。

 日露戦争で日本が勝利したことで、トルコ侵略を含むロシア南下政策が止まったことである。

 対露戦の日本の勝利は、後に述べるロシア支配下にあったポーランドにも、勇気を含む多大なる影響を及ぼしていた。

 もし、日露戦争の日本の勝利なかりせば、トルコに対するロシアの侵略は実行され、その蹂躙(じゆうりん)の足跡の無惨は如何(いか)ばかりであったことか。

 トルコもまた、ポーランド同様にその国を失った可能性は高い。