侵略・弾圧続けるロシアの犠牲に


 ロシアは叛乱(はんらん)に加担した政治犯や危険分子をポーランドから一掃し円滑な統治を図るが、目的の地に選ばれたのが極寒の地、シベリア。

 寒過ぎるのか、ウオッカの飲み過ぎか、権力を持ったロシア人の考える事はいつも同じで、危険の排除と土地財産の没収、そして未開の地での強制労働による開発の一石三鳥を目論むことになっている。

 第一次世界大戦までにシベリアに流刑にされたポーランド人は五万人余りに上った。

 更にその第一次世界大戦で、祖国ポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、追い立てられた流民がシベリアへと流入。

 結果、シベリアのポーランド人は十五万人から二十万人に達した。

 そんな折、ロシアの権力者が変わる。

 一九一七年に勃発したロシア革命である。

 権力を掌握したウラジーミル・レーニンは国家体制を帝政から社会主義共和国連邦へと極端な転換を図るが、その際、西欧諸国からのロシア皇帝借金は新政府とは関係ないから返済せずと宣告。
 熊の毛皮の帽子を被っても寒さに脳が凍っているのか、突如としてロシア人はイワンのバカになる。

 英、仏、米の莫大な借金を踏み倒すと、吐く息とともに高らかに吠えたのだ。

 巨額な貸付金の返済拒否は自国の経済破綻に跳ね返る。

 更に二年後にはコミンテルンを結成し、共産主義革命の思想を世界に伝染させ始める。

 借金は踏み倒すワ、他国の体制の転覆は図るワ、もはや看過(かんか)出来ず、英仏が立ち上がった。

 ここにシベリア出兵が実現する。

 日本はどうであったか。

 英国などから再三に亙って出兵の催促あるも日本議会は強硬な反対派が占めて動かない。

 理由はひとつ、大義が無い。

 未だ当時の政治家には武士の名残を見る。

 日本はロシアへの貸付金こそないものの、革命の影響が満洲や朝鮮半島に及ぶ危惧(きぐ)はあった。

 遅れて米国が派兵を決定するに合わせて、大義を見つけた日本も大正七年(一九一八)八月、シベリアへの陸軍派遣に踏み切った。

 ポーランド人はどうであったか。

 ただでさえ流刑人としての厳しいシベリアでの暮らし向きでの帝政崩壊、加えての共産主義への急激な変更、これら変化に伴う内乱、更に他国の出兵による混乱。

 これらの皺寄せが一気に最も弱い立場にあったシベリアのポーランド人の身に襲いかかった。