花も実もある真の武人―水師営の会見―


 鬼神の強さをもつ軍神乃木は、ただ剛勇だけの将帥ではなかった。「武士の情(なさけ)」をあわせもつ「花も実もある」真の武人であった。それを示す戦争中の佳話が敵将ステッセル(旅順要塞司令官・陸軍中将)との「水師営の会見」である。
㊤明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍㊦会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)
(上)明治38年1月5日「水師営の会見」を終えての記念撮影。中列左から2人目が乃木希典将軍、その右がステッセル将軍
(下)会見を終えて帰途につくステッセル(左から2人目。白馬に騎乗)は、敗将に対しても佩刀を許するなど礼節と思いやりの接遇に感激。騎乗してきた愛馬の進呈を申し出たが、軍規上できないと乃木は辞退。ステッセルは後に改めて愛馬を送り届けた(『日露戦役旅順口要塞戦写真帖』明治38)
「古今の最難戦」であった旅順攻囲戦が終った明治三十八年一月五日、旅順要塞近くの水師営で会見は行われた。乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。

 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。

 会見で乃木はまず明治天皇のステッセルに対する仁慈に溢(あふ)れるお言葉を伝えた。

「わが天皇陛下は閣下が祖国のために尽くされた忠勤を嘉賞(かしよう)し給い、武士の体面を保持せしむべく、私に勅命あらせられました」

 この言葉にステッセルはいたく感銘してこう答えた。

「貴国の皇帝陛下よりかくのごとき優遇を蒙(こうむ)ることは、私にとって無上の名誉であります。願わくは閣下から私の衷心よりする深厚なる謝意を電奏せられたい」
英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と
(『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11)
英国王戴冠式に参列する東伏見宮に随行した船上の乃木と東郷平八郎(左)と
 (『回顧乃木将軍』菊香会編 昭和11)
 このあと両者は打ち解けてなごやかに語り合った。ステッセルは日本軍の不屈(ふくつ)不撓(ふとう)の勇武を天下に比類なきものと賛嘆を惜しまなかった。乃木もロシア軍の頑強無類の守備の堅固さを称えた。続いてステッセルは乃木がこのたびの戦いにおいて二人の息子を戦死させたことを哀悼した。すると乃木はこうのべた。

「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてその死所(ししよ)を得たるを悦(よろこ)んでおります。両人がともに国家の犠牲になったことは一人私が満足するばかりではなく、彼ら自身も多分満足して瞑目しているであろうと思います」

 ステッセルは愕然として言った。

「閣下は人生の最大幸福を犠牲にして少しも愁嘆の色なく、かえって二子が死所を得られたことを満足とされる。真に天下の偉人であります。私らの遠く及ぶところではありません」

 そこにはもはや仇敵同士の姿はなく藹々(あいあい)たる和気が漂った。乃木の人物に深く打たれたステッセルは白色の愛馬を乃木に献じた。この両者の会見は唱歌「水師営の会見」として小学校で教えられるなど、永らく人々に愛唱された。