涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや


 乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。

皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す
野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す
愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん
凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る

 乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。

 乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば二人の息子とともに戦死したかった。戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして生きて還ることを心から恥じたのである。そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。

 明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民はあたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。
(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』)
(上)日露凱旋を奏上に向かう乃木の馬車に沿道の人々は「万歳」の祝福
(下)「愧我何顔…」と乃木は複雑な胸中を漢詩にした(『回顧乃木将軍』)
 東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当時市民の間で交わされた言葉がある。

「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」

 このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。

 ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。

 明治天皇の目にも涙があふれた。奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。

 あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。

「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、朕世を去りたる後にせよ」

 乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。

 このような軍将が世界のどこにいるだろうか。かつて戦いの歴史にあったろうか。明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、格段の心配りをしてやまなかった。