学習院長―教えのおやとして

 
  明治四十年一月、明治天皇は乃木を学習院長に任命した。経緯はこうだ。前年七月、参謀総長の児玉源太郎が急逝した。大山巖に代わり就任早々であったが、日露戦争において心身を燃焼し尽くしたのである。児玉は文武の全才として桂太郎(日露戦争時の首相)の後を継ぐべき最適の首相候補と目された。乃木は長州人として児玉と親交を重ねた間柄だから葬儀委員長を務めた。

 陸軍の大御所山県有朋は後任に乃木を推挙し内奏したが、天皇は「乃木については朕の所存もある。参謀総長は他の者を以て補任せよ」と答えた。人物、才幹そして日露戦争の大功よりして誰一人異存のあろうはずのない推挙であった。山県はこれほど天皇の信任厚い乃木をなぜ任用しないのかいぶかしく思った。結局第二軍司令官を務めた奥保鞏(やすかた)が任命された。

 しばらくして山県が拝謁すると、天皇は機嫌ことに麗しくこう伝えた。

「乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。朕の三人の孫が近く学習院に学ぶことになる。その任を託するに乃木が最適と考え、乃木を以て充てることにした」

 後に山県は「陛下の乃木に対する異常の御信任に感激せざるを得ぬ」と語っている。当時参謀総長は帝国陸軍の最高の要職であり、これまで山県有朋、大山巖、川上操六、児玉源太郎等の最有力者が担当した。その参謀総長よりも、将来の天皇となるべき迪宮(みちのみや)(後の昭和天皇)はじめ皇孫を輔育する学習院長の役目の方が重大であり、その最適任は乃木だと天皇は言ったのである。
(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』)
(上)学習院初等科4年の迪宮(昭和天皇)=前列中央=明治44年
(下)学習院長時代の乃木(『回顧乃木将軍』)
 明治天皇は乃木を伊藤博文、山県有朋ら元老に次ぐ国家の柱石として絶大の信頼を置いた。天皇は乃木に御製を授けた。

いさをある人を教のおやにしておほしたてなむやまとなでしこ

「おほしたてなむ」は「生ほし立てなむ=立派に育てよう」、「やまとなでしこ」は現在のように女子を指すのではなく、「撫子=かわいい子ら」で「皇孫はじめ日本を背負いたつべき子供たち」の意。

 そうしてこう言った。

「乃木も二人の息子を亡くして寂しかろうから、代りにたくさんの子供を預けよう」

 乃木は当初、あまりの重責に「武人たる自分はとてもその任にあらず」と固辞しようとしたが、この言葉に込められた厚い配慮に感泣し、拝命した。この時次の歌を詠んだ。

身は老いぬよし疲(つか)るともすべらぎの大みめぐみにむくひざらめや

「すべらぎ」は「すめらぎ」と同じく天皇のこと。「よし疲るとも」は「もし疲れ果てようとも」の意。

 時に五十九歳。立場こそ異なっても乃木は戦場にある時と同様に尽力、迪宮の教育に渾身の努力を捧げた。これに対して迪宮は何事につけ「院長閣下は…」「院長閣下が…」と乃木を慕い、乃木の教えを実践したという。

 昭和天皇は晩年、自らの人格形成に最も影響を及ぼした一人として乃木を挙げている。