殉死―みあとしたいて


 明治四十五年七月三十日、明治天皇崩(ほう)御(ぎよ)。御年六十一(満五十九)歳であった。誰よりも深い信任、親愛を賜った乃木の悲嘆は言葉に尽し難い。大正元年九月十三日、大葬が挙行された。遺体を運ぶ霊轜(れいじ)が宮城を出発する合図の号砲が打たれた午後八時すぎ、乃木は自邸で後を追うべく古式に則り切腹、自決した。数え六十四(満六十二)歳である。辞世は次の二首である。
(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)
(上)明治天皇大葬の大正元年9月13日朝、自宅での乃木希典、静子夫妻。乃木は参内した後、夜八時の弔砲に合わせて自決。
(下)乃木は刀を左わき腹に突き刺すと右へ一文字に引き回して最後一寸ほどかき上げ、刀を持ち直して喉を突いて果てた。夫人は短刀で胸を2度、そして心臓を突いて突っ伏し息絶えた。血痕が残る畳(『回顧乃木将軍』)
                           臣希典上(たてまつる)
神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる
                                 臣希典上
うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて我はゆくなり


 割腹の許しを請うた時に明治天皇が答えた「朕世を去りたる後にせよ」の言葉を守ったのである。

 凱旋後、乃木は機会あるごとに戦死者の墓を詣でその冥福を祈り、遺族を慰めつつ、常にこう述べた。

「畢竟(ひつきよう)あなた方の子弟はこの乃木が殺したようなものである。腹を切って言い訳をせねばならぬのであるが今は時機でない。やがて乃木の一命を君国に捧げる時があろう。その時はあなた方に対して乃木が大罪を謝する時である」

 乃木は遺言状で、切腹自決の理由として、明治十年の西南の役における軍旗喪失(連隊旗を敵に奪われたこと)のみを記し、これには触れなかった。そこには配慮があった。

 戦争で戦死者が出ることは不可避で、勝利したにもかかわらず多数の死者を出したことを自己の責任として自決せねばならぬとすれば、上級指揮官はみなそうせねばならぬことになるからである。それはあくまで乃木個人の道義的な責任観念によるものであった。

 だがこの自決は乃木にとり決して悲しい最期ではなかった。何より辞世に乃木の心底が包むところなく吐露されている。いかなる臣下よりも深い恩寵を蒙(こうむ)ったこの世に神と仰ぐ明治天皇のみあとをはるかに拝(おろが)み、みあとを慕いゆくことは、乃木にとりこの上ない悦びに満ちた死出の旅にほかならなかったのである。このとき妻静子もともに殉死した。