私が生まれた東京・下町の在日韓国人が言った言葉が忘れられない。「美空ひばりは韓国人だ。あんなに歌のうまい日本人がいるはずない」。この話が真実かどうかに興味はないし、詮索してもあまり意味はない。ただ、在日という宿命を背負った人間の「都市伝説」信仰の根深さに圧倒された。

 だが、漢江(ハンガン)の奇跡といわれた1960年代の驚異的高度経済成長や1988年のソウル五輪の開催に伴い、この種の話をする者はほとんどいなくなった。とりわけ、1990年代末の通貨危機を乗り越え、今や日本に対等に物を言うようになったこの国では、対馬海峡を命からがら渡った末に、炭鉱夫や土方といった重労働に就いた在日の物語は、完全に忘却されてしまった感がある。

 そのくせ従軍慰安婦問題はいつまでもトラウマとして突き刺さっている。こうした矛盾した現実に異様なものを感じながら、私は孫の父方の祖父の生まれ故郷の大邱(テグ)に足を運んだ。

「金くれちゅうこっちゃろが」

 大邱に到着して、まず向かったのは、市の中心部に近い雑居ビル群の中にある「一直孫子会館」だった。ここは、朝鮮半島南東部に位置する慶尚北道(キョンサンプクト)・道庁所在地の安東市をルーツに持つ「孫一族」の氏子集団の親睦を目的として作られた。事務所を訪ねると、10人ほどの老人が一斉に立ち上がり握手を求めてきた。全員、「孫氏」である。

「孫正義は一族の誇りです」

 事務局長の孫在出(ソンジェチュル)が顔を紅潮させながら言う。応接室の書棚に眼をやると、孫正義関連の本がズラリと並んでいた。孫在出は、自慢げに簡易製本された「一直孫氏」の家系図を広げた。大邱一帯には、孫一族が約3万人おり、孫正義は、25代目にあたるという。

「直接手渡そうと思って作ったが、どうやら彼は忙しいらしい。日本に帰ったら正義に渡してほしい」

 そこを辞去して大邱の郊外ののどかな農村を訪ねた。ここは正義の祖父の孫鍾慶(ソンジョンギョン)が住んでいたところである。孫の遠縁にあたる男に話を聞くことができた。

「孫鍾慶の家は代々、米を作っていましたが、近くに日本軍の飛行場ができたため、農民が土地を奪われた。そこで鍾慶は仕方なく日本に出稼ぎに行ったんです」

 日本で鍾慶は正義の祖母・李元照(イウォンゾ)と出逢い、その後、正義の父・三憲(みつのり)を含めた4男3女をなした。鍾慶は戦後、子供を連れて一時大邱に戻ってきたという。

「だが祖国は荒廃し、仕事はなかった。鍾慶一家は一年滞在しただけで、日本に戻りました。そのとき彼らが住んでいた家はもうない。朝鮮戦争が始まると、今度は米軍が日本軍から接収した飛行場を拡張するために、この一帯の家を取り壊した」

 田畑は日本に、家は米に接収された。孫正義は日米韓の悲しい歴史の狭間で産み落とされた男だった。