昭和20年8月15日、重大放送があるというので、ともに働いていた中学生らと共に総務課に集まり、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げるのを聞いたときは、ただ「戦争が終わったな」というのが第一の感情でした。戦地にいる兵士が戦闘が終わり、敵が撃ってこなくなったのでホッとしたのと同じような感情でしょうか。学校に戻り、私がクラスを代表して中学校の職員室に行き、先生に「これからどうしたらよろしいのですか」と聞いたのですが、先生も分かるはずがなく、「とにかく家に帰りなさい」と言われて、ただ黙々と家に戻りました。家についたら父がいて、「お父さん、戦争が終わったみたいやで」って言ったら、「そうらしいなあ」と答えました。父は病気で召集令状がこなかったので家にいたんです。

アリゾナ記念館で海に沈む戦艦アリゾナに花びらをまき、
黙とうする安倍首相(左端)とオバマ米大統領(右から2人目)
=12月28日、米ハワイ・真珠湾(代表撮影・共同)
アリゾナ記念館で海に沈む戦艦アリゾナに花びらをまき、
黙とうする安倍首相(左端)とオバマ米大統領
(右から2人目) =12月28日、米ハワイ・真珠湾
 終戦から15年後、私はアメリカ、ニューヨークにあるシラキュース大学に留学することになりました。まだ海外渡航の自由がない時代で、現地に行く前に5週間、ハワイ大学のイーストウェストセンターで研修を受け、水洗トイレの使い方から教わりました。

 このときに、初めて真珠湾を訪れました。いまあるアリゾナメモリアルのような上等な建物はなく、ただあるのは海だけ。団平船でアリゾナが沈んでいる場所の海上まで行くと、まだぽつんぽつんと、油が浮かんでいました。いろんな考えが浮かびましたが、その中には、人間いつも注意していなければならないということです。日本が奇襲攻撃をした日曜日の朝、米軍の飛行機は一機も空を飛んでいなかった。もし東西南北に分けて3~4機の飛行機に哨戒飛行をやらせていたら日本の真珠湾攻撃は成功しなかった。日本は大敗北で戦争を始めることになって、そうしたら広島も長崎への原爆投下もなかったかもしれない。

 毎日新聞の記者時代、真珠湾から40年の節目にハワイを取材したが、現地の人の多くが語っていたのが「Forgive, but never forget」。日本がやったことは許そう、しかし忘れてはならないということでした。

 真珠湾攻撃によりアメリカの戦艦6隻中2隻が撃沈、死者は2400人以上に上りましたが、あれだけ軍艦が集まっているのに、空を全然守らないなんて、常識では考えられない。敵はいつどこから攻めてくるかわからない。当時23歳だった通信兵は「あの時点では遅かれ早かれ戦争だと察しはついていたし、戦争なら日本が奇襲をしかけてくることも予想できた。真珠湾が惨憺たる状態になったのは我々の不注意。日本軍がやったことは、まさに我々が何度も演習で準備していたことですから」と語っていました。

 真珠湾攻撃については、ああしかやりようはなかったのではないかと思うこともある。山本五十六は連合艦隊司令長官になる前、アメリカに海軍武官として駐在しており、アメリカのことをある程度知っている。アメリカとの戦争に勝つためには西海岸に上陸し、ロサンゼルスやサンフランシスコを平定し、ロッキー山脈を越え、大草原を越え、ミシシッピを渡り、アパラチア山脈を越え、ワシントン、ニューヨークに攻め込んで、敵の大統領がホワイトハウスの前で負けましたというまでやらんといかん。どうしても戦争をするなら、日本人がびっくりするようなことはやれるというようなことを語っていたという。そしてまさにその通りになった。世界中がびっくりした。