スポーツの勝ち負けは、賭け事の勝ち負けと同じくギャンブル性が高く、「切った張った」の世界なのだろうか?

 勝負のかかる土壇場の興奮状態が、ギャンブルで直面する昂揚感と近いことは確かかもしれない。けれど、近いようで遠い、まったく別の次元の興奮ではないかと私は思う。他力本願と自力本願。ギャンブルは多くの場合が他力だ。偶然性も高く、予想するのは自分でも、実際に走るのは馬だったり、他者であったり、ポーカーマシンであれば勝負を演出するのは機械だ。ここがスポーツ競技とはまったく異なる。

全英オープン男子シングルス2回戦でインド選手を破り、準々決勝に進んだ桃田賢斗のプレー=2016年3月10日、バーミンガム (AP=共同)
全英オープン男子シングルス2回戦でインド選手を
破り、準々決勝に進んだ桃田賢斗のプレー
=2016年3月10日、バーミンガム(AP=共同)
 最近のスポーツ界は勝負の結果ばかりが最終的には評価の対象となっている。勝てば官軍、負ければ賊軍的な空気が支配し、たとえ汚い手を使っても、結果が出た選手やチームがもてはやされる。プレーの質や深さを評価されるのでなく、要は結果が全てとなったら、選手たちの思いもギャンブラー的な感覚に向かうのは仕方がない。

 そう考えると、果たして子供たちにスポーツを推奨し、健全な心身をスポーツで鍛えよう、という根本的なスポーツの目的が揺らいでしまう。重要なのは、桃田の謹慎明けを誰かが判断し、罰を下し、罰を終わりにすることではないと思う。桃田自身が、一体何を学び、何に目覚め、バドミントンに取り組む意味に気づいて変わったのか変わっていないのか。そこではないか。そして、協会も世間も悪くない、法律を犯した桃田だけが悪い。本当にそれでこの問題は片付くのだろうか。

 子供たちに夢を与え、バドミントンに興味を持ってほしいから、お金も稼ぎ、華やかな生活をするのが自分の務めだ、と事件の前から桃田は公言していた。そうした発言や振る舞いをはやし立て、持ち上げていたのは誰だったか。お金が全てではないし、有名になれば幸せを手に入れられるとは限らない。スポーツには、そういう浅い喜びにとどまらない深さがあるからこそ、世界中の人々が愛好し、育ててきたのではないか。

 私たちはもっと、質の高いスポーツの意義や目的に改めて気付き、これを共有することこそ、2020年東京五輪に向けて真っ先にすべき基本ではないだろうか。