岩下哲典(東洋大文学部教授)
今年、平成29年、2017年は丁酉(ていゆう・ひのととり)の年である。180年前の同じ丁酉、天保8年、1837年には、幕府や諸藩・知識人を震撼させた、大坂町奉行所元与力の大塩平八郎が起こした反乱や天保10年に勃発する蛮社の獄のきっかけとなったアメリカ商船モリソン号が浦賀・薩摩で砲撃された事件が起きている。まさに内憂外患が顕在化した年である。
そして徳川幕府を自ら終焉に導いた徳川慶喜が生まれたのが、この年であった。丁酉の年は、とかく世の中がさわがしいという。確かにそうかもしれない。なお、本稿の主人公坂本龍馬はその2年前の天保6年に生まれている。

小正月直前の1月13日、TVで龍馬の新史料発見のニュースを見た。最晩年の書簡という。中根雪江、由利公正、永井尚志など、おなじみの名前が聞こえた。いずれ、分析してみたい。そう思っていると、電子メールで産経デジタルの編集者の方からのメールを大学事務局経由で受け取った。くだんの龍馬の書簡の分析・考察をしてほしいという。俄に心が騒がしくなった。
以下、私なりの書簡の写真版による分析と考察、さらにはそこからの妄想の活字化を行いたい。しばし、この未定稿におつきあい願いたい。
なお、本稿では、参考文献は本文中に記載し、最低限度にとどめた。大方の寛恕を願いたい。
新出の龍馬書簡の外見・内容と意義
今回見つかった龍馬の書簡は、慶応3年11月10日付のもので、越前福井の前藩主松平春嶽の側近として名高い中根雪江に宛てて書いたものである。
まず外見から分析していこう。ネット上で見ることのできる新聞記事や動画から、封紙(書簡の包紙)1と本紙(書簡本文)1の2つのもので構成されていることがわかる。これら2つが、さらにどのように収納されていたのかに関してはわからない。
たいていこうした史料は、さらに封筒や箱など、あるいはその他の容器に入れられていることが多いので、そうしたものがあるならば、その情報や写真がほしいところである。なぜならば、こうしたものから、この書簡の来歴や伝来がわかることもあるからだ。封紙や本紙だけでなく、その入れ物にも注目していただきたい。