倉山満(憲政史家)
はじめに
編集部より「将棋について書け」との依頼である。ということで書く。さて、何からはじめようか。
縁台将棋という言葉がある。
今の時代、縁台そのものが死語か。家の外にある、要するに腰掛なのだが、昔は近所のおじさんたちが縁台で将棋を指す光景がどこにでも見られた。将棋を指すことを、対局という。対局者どうしもあれやこれやとおしゃべりをしながら指すし、周りの人間もワイワイガヤガヤ言いながら見物している。
お行儀がよくない「助言」もなされるが、「そこは御愛嬌」である。ある種の庶民的な空気が将棋文化を作ってきたとも言える。最近は雰囲気も変わり、「女性や頭が良い子供が入りやすい道場」を心掛けているとも聞くが。いずれにしても、アマチュアの世界では、あまり作法はうるさく言われない。
一方、プロの将棋は別世界である。プロ棋士が指す本物の将棋は、恐ろしいばかりの静寂の中で行われる。毎週日曜朝に放映されているNHK杯将棋トーナメントでも、ある程度の雰囲気は伝わると思う。実際に対局場に足を踏み入れたものの、あまりの緊張感に逃げ出した人も一人や二人ではない。「助言」など、もってのほかである。

疑いをかけられた棋士、疑いをかけた側の複数の棋士、運営に当たる将棋連盟。すべての当事者が傷ついた事件であるし、部外者がとやかく論評する話ではない。
今回取り上げたいのは、この事件の意味である。この事件がどういう意味を持つのか。事件の推移は伝えているものの、そこで示された事実の意味を伝えているメディアがいかほどあろうか。縁台将棋の立場からであるが、今回の事件を契機に、将棋について思うところを書き連ねたいと思う。
将棋の本質
そもそも、読者諸氏はどれくらい将棋の事を御存じだろうか。
盤の上に四十枚の駒があって、二つの陣営にまったく対等の条件で二十枚ずつ配置されている。先手と後手を決めて一手ずつ指す。敵の王様を追い詰めれば、勝ち。二人で、対等の条件で、お互いに手の内がわかっているゲームである。そこに、運や情報格差が入り込む余地はない。すなわち、己の力以外の要素が入り込む余地が無いゲームなのだ。ということは、言い訳がきかない、ある意味で残酷なゲームである。負けたときに、自分が悪かった以外の理由が存在しないのだから。さらに言うと、将棋では負けた側が「負けました」と宣言して対局が終了する。この意味でも苛酷なゲームでもある。