「みんな一緒」が支持されてきた


 ところが、調査した総務省の【所見】にはひとことも「ケースワーカーを増やすべきだ」とは書いていない。むしろその逆ともいうべき、「少なくとも年2回以上の家庭訪問等の遵守について指導すること」と、現場の過酷さを増すような「指導」が叫ばれているだけなのだ。

 このような状況で、市がケースワーカーを増やすのは難しいだろう。高齢化や長引く不況により、生活保護世帯は増え続けている。にもかかわらず現場は昔のままで、ケアする側のマンパワーが足りていない。そこへきて被保護者による暴力事件などが起これば、「カス」なる文言をまとって士気を高めようという短絡的な思考に陥るのも、無理はない。

 疲弊したシステムが、短絡的な差別意識を生むのである。「不正受給がまかり通っているのだから仕方がない」とか、「市の職員の気持ちも分かる」という意見も耳にする。生活保護へのスティグマ(社会的烙印)は、この一件によってますます強まったのではないか。小田原市だけの問題ではない。この国は、生活保護を受ける人たちに対し、異様に冷たい。

 かつて「一億総中流」という言葉があった。この言葉はもともと、60年代の政府が行った調査で、生活水準を「中の中」とする回答が最多を占めたのがきっかけで生まれたものだ。高度経済成長によって生活水準が向上し、国民がみな「明日の生活はもっと良くなる」と信じていた時代である。
 「一億総中流」なる言葉には、「みんな一緒」を彷彿とさせる安心感がある。実のところ、バブル期から経済格差はじりじりと拡大してきているにもかかわらず、私たちは長いあいだ「みんな一緒」を信じてきた。40年あまりも「一億総中流」幻想が共有されていたのだから、それは強固なものである。

 この間、人権が脅かされるほど困窮してしまう貧困層の存在は忘れ去られていた。経済発展のおかげで、国民にそれほど負担を強いなくても、富の再分配が可能だったからだ。実際は貧しい人たちへの経済的再分配が行われていたにもかかわらず、多くの国民はそれを意識することがなかった。だから「あの人もこの人も、似たような生活をしているのだろう」と信じることが可能だったのだ。