良い独裁と悪しき独裁
 

 独裁政治の定義はさておいて、安倍首相の個人的な奔放な考え(恣意)がことごとく日本の政治的現実になり、その現実が、論理的には矛盾するが、仮に日本が戦後掲げてきた政治、平和主義と民主主義と基本的人権の擁護と発展にとって、このましい結果をもたらすならば、ことさら政治の一決定方式でしかない民主主義政治という制度にこだわらなければ安倍政治をして独裁と決め付け、危惧の念を抱き、非難することも怖れることはないはずだ。

 ただそれにしても一人の人間の恣意による政治が仮に良い結果をもたらしたとしても、それが正しく良い結果を何時までも続けるのかどうか。あるいは良かれと思った結果の恩恵に浴する人々が変化したりする可能性はないのか、と言えば、そんなことはない。 
                         
 その良き独裁政治に限らず政治的な成果と現実を一定化させたり永続させることを担保しうる補助的な政治制度を、私たちはうみだしてはいない。政治を取り巻く諸々の環境を制御することなどできないのであり、永続する変動の特異地点で、繁栄や安定が永続するように見えるときがあると考えたほうがいいのだ。だから政治家として問われる能力と言えば安定を持続させる能力ではなくて、変化にいかに対応できる能力があるかが問われるのであって、その能力はとりわけ政治的権力を掌握した者に要求される能力ということになるかもしれない。よい独裁政治がありえたとしても良い独裁政治には、それが悪い独裁に激変するリスクは絶えず存在し続けることになる。

 そうではなく、憲法違反の政治を憲法違反ではないと言い続けられるスーパー独裁政治の安倍政権が戦後の70年の自由民主党が掲げてきた民主主義、平和主義、基本的人権の確立、擁護、発展に齟齬をきたす、マイナスになる独裁政治になるならば、安倍政治を注意深く監視し、その勢いを怖れずに、安倍政治NOを言わなければならないし、その政権の存続を許さないように勤めなければならないだろう。


安倍総理の後の新安倍総理


 日本の政治は日本国憲法による統制下にあり、憲法に違反する政治は存在し得ないことになっている。だから安倍政権が存在しているということは、彼がなしてきたことはことごとく日本国憲法に違反せず、もちろん非合法政権でもないということになるはずだが、もう一つの現実は、集団的自衛権の行使は違憲だという現実があることだ。

 この2つの事実から、あまりにも容易に推定しうることは、政治的現実の中には憲法制定時には想定し得ない緊急事態が発生することはあるわけで、その事態の対応することが憲法に反することもありうる。だからそのような場合には、あえて政治家の責任において一時的に違憲状態という現実が発生する。しかし違憲状態は過渡的なものでなければならないので、その緊急事態が長引くようであれば憲法の改正をして違憲状態を速やかに解消しなければならない。このようにして法体系は厳守されるのだ。ところが集団的自衛権の行使のように違憲であるにもかかわらず立法者や行政者が違憲でないと主張して違憲状態が発生してしまうと、当事者からは憲法違反の解消と言う意欲は生じなくなり、最高裁判所での違憲訴訟による判断を仰がなければならなくなる。ところが最高裁判所は違憲かそうでないかの判断はしないと言う更なる状況が日本で生じてしまっていることになる。

 日本の政治は安倍政権の独裁政治に対して抵抗力、抑止力を排除する力を有していないか、その独裁政治を跋扈させる機能、メカニズム、生理が内蔵されているのだ。

 だから、日本の政治の生理を見極めて対策を講じなければ、安倍独裁政治は突発的な現象ではなく、安倍首相の実例が日本の政治に影響を与え続けて、今後益々容易に憲法改正などせず憲法違反の政治即ち独善的な政治が展開する新安倍とも言うべき政治家が出現することになるだろう。