安倍政権批判のための論理


 また丸山の弟子である橋川文三は、自らの戦争体験を描く際、シュミットのロマン主義批判を参考にした。シュミットの著作を読む。すると、自分が戦前に経験した日本の文化と古典へのうなされるような情熱の根源をすっきりと理解できる。だから貪(むさぼ)り読んだ。では日本の知的情熱を支えたシュミットとは一体、何者なのか。

 シュミットは言っている。私たちは自由主義と民主主義を分けなくてはいけない。自由主義とは、議会制のことだ。議会では議員同士による自由で多様な討論が行われる。だから議会制=「自由」主義と呼ぶ。確かに、多様性といえば聞こえはよいだろう。だが実際は何にも「決められない政治」ではないのか。多様性とは意見が分裂し、何も決定できないとも言えるからだ。

 ところが民主主義は違う。民主主義の特徴は多様性ではない。民意をまとめ、皆が同じ意見になることだ。そのためには強力な指導者、つまり意見を集約する独裁者の登場が必要なのだ-シュミットはこう言っているのである。大衆化した民衆が、拍手喝采して同じ意見になだれ込む。多様性をほうり出すことで、ヒトラーは劇的に登場してきたのだ。自由主義ではなく、民主主義によって。

 だとすれば、この議論を握りしめ、現在のわが国政権を批判していることは、一目瞭然のはずだ。安倍政権を批判するために、民主主義という言葉をやすやすとほうり出し、あるいはシュミット流に読み替え、民主主義などよくないと言い募るわけだ。

善悪のレッテルを貼る傲慢さ


 ところが今度は国会の周囲に眼を転じてみると、議事堂の前では議会制を無視した人びとが、我こそは「民主主義なり」と絶叫しているではないか。集団的自衛権をめぐって、一つの問題で意見が「同じ」人びとが議会の外で熱狂し、それを民主主義であると言っているのだ。

 以上から言えることは何か。それは、私たち日本人が「民主主義」という言葉を、いかに状況にあわせ適当に使っているかということである。結局、自ら思うところの正義にかなっているときは民主主義=善、自分の思いどおりにならなければ、民主主義=悪として言葉を乱用しているのだ。

 詳しい議論は、14日刊行の拙著『違和感の正体』(新潮新書)をご覧いただこう。現政権という一時的なものを否定したいからといって、先人が血の滲(にじ)む思いを込めてきた言葉「民主主義」に善悪のレッテルを貼るほど傲慢なことはない。この国では、やはりどうみても民主主義は、幽霊のように存在が希薄で、浮足立ち、かすんでいるように思えてならないのである。本当は誰ひとり民主主義など、信じていないのだ。

 むしろ今こそ、安易に民主主義を否定したり絶叫したりせずに、議会制について、大衆社会について熟慮すべきではないのか。私は地に足を、つけ続けたいと思う。