よく言われるのは、大軍を擁していることから来る義元の慢心である。また、「信長は決戦を仕掛けてこないだろう」という読み違いもあったはずだ。
桶狭間古戦場内にある今川義元の墓。左は駒つなぎのねず=愛知県豊明市
桶狭間古戦場内にある今川義元の墓。左は駒つなぎのねず=愛知県豊明市
 兵力差がある場合、正面から野戦を挑んでくる敵などいないというのが、兵法の常識である。とくに武経七書に精通した義元は、敵将もセオリーを知っていると思い込んでいたのではないか。

 豊富な知識が、逆に墓穴を掘ってしまったのだ。

 また、大小の丘陵が幾重にも連なるこの辺りは、特定の道を選んでいけば、敵に知られず、どこにでも出られたと言われている。

 つまり、迂回(うかい)奇襲か正攻法(正面攻撃)かで、よく議論される桶狭間合戦の真相だが、正面奇襲という策も取り得たのだ。

 戦後、信長は義元の首を取った毛利新助よりも、的確に義元側の情報を伝えてきた簗田政綱(やなだ・まさつな)を功第一としたが、政綱は義元の居場所を掴(つか)み、敵に知られずに、そこに至るルートを知っていたのではないだろうか。

 つまり義元は、入ってはいけない死地に駒を進めてしまったことになる。

 それにしても不思議なのは、義元の積極性である。大将たる者、後方に陣取り、最前線が安全なものとなってから、陣を進めるべきだろう。

 この場合、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよいわけであり、義元の進軍は、やや性急な気がする。

 義元には、何らかの焦りがあったのではないだろうか。

 それが何か分かった時、この合戦の実像が見えてくる。

 義元が手にしたかったのは、織田家の財源になっている伊勢湾交易網だが、その交易によって確保したかったのは、焔硝(えんしょう)(火薬)ではなかったか。

 すなわち、この頃から合戦における鉄砲の重要性が高まり、東国の大名たちも、鉄砲や弾丸を求め始めている。

 鉄砲や弾丸だけなら内製化という道もあるのだが、問題は内製できない焔硝である。

 伊勢湾を押さえることで、堺を経由して東国に流入する焔硝を自由に入手でき、鉄砲が主となるこれからの戦を優位に進められる。

 仮定の話だが、大高城には、堺から運ばれてきた大量の焔硝が貯蔵されており、それを敵の手に渡してならじという焦りが、義元に生じていたとは考えられないだろうか。

 しかし、いかに推理してみたところで、真相は闇の中である。

 信長は、細い糸を手繰(たぐ)り寄せて大きな勝利を手にし、義元は勝てる戦を落とした上、命までも失った。

 これにより、信長の声望は天を衝(つ)くばかりとなり、天下人への道が開ける。

 一方の今川家は滅亡への道をひた走ることになる。

 人の運命とは過酷である。いつの時代も油断は大敵なのだ。