義元が正室として武田信玄の姉を迎えるのは翌年のことだから、身の回りの世話をするために側室として迎えられたものの、正室の武田氏に遠慮して重臣・関口親永に下げ渡されてその妻となったのではないだろうか。

 天文5年というと、直虎が生まれたと推定される前後のことであり、直虎自身が駿河へと向かったこの大叔母の姿を覚えていたとは考えられないが、その後井伊谷で彼女の噂を聞くたびに女の人生は男によって左右されるのが戦国の定めなのかと、成長するにつれ直虎は複雑な思いをかみしめていたに違いない。

 この大叔母の娘、築山殿も本名は定かではない。後世の史料が「瀬名」「鶴」などと呼んでいることから、ドラマでも「瀬名」を用いているが、この「瀬名」は親永の実家の名字である。「瀬名の姫」と呼ばれていたものが、いつか彼女の名と混同されてしまったのだろう。

 彼女は弘治3年(1557)に竹千代あらため松平元信(後の徳川家康)と結婚。このとき家康は数え15歳だが、彼女の年齢は分かっていない。一般には姉さん女房だったという。義元の肝煎りだったが、彼は織田との戦いに備え松平氏をより引き付けておくため、義理の姪をさらに自分の養女とした上で縁付けた。

 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで井伊・松平がともに先鋒隊に組み入れられたのも、この縁組で両者が親戚関係となったのが大きいかも知れない。

 桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、家康は本拠の三河岡崎城に戻って今川家から独立し、その支配地を侵し始めた。瀬名と子の信康・亀の兄妹は人質交換で駿府から岡崎へ迎えられたが、関口親永は義元の子・氏真から責任を問われ、切腹させられてしまう。そして、このときその妻も自害に追い込まれたという話もあるから、これが“佐名”のことであれば彼女の生涯は徹頭徹尾自分では何も決められない、哀しいものだったと言うほかない。

 だが、彼女の死は、逆に残された直虎・築山殿というふたりの血縁の女性に重大な決意をもたらしたのではないだろうか。

 天正2年(1574)に牟礼(むれい)勝成という6歳の子供が徳川家に出仕するのだが、実は彼は築山殿の妹の子(“佐名”の孫)である。彼の父・勝利は氏真から織田信長に転仕しているが、築山殿が自分の甥である勝成を連れて来たものと思われる。彼は信康の小姓として仕官し、やがて家康の旗本となるのだが、築山殿は自分と信康の近くに親族を置いて結束を固めようと計らったのだ。

 さらに、天正3年(1575)、直虎が直政を徳川家康に出仕させる。直虎にとっては築山殿の庇護を期待できるからだったからであり、逆に築山殿も牟礼勝成同様、自分の親類である直政を徳川家臣とし、こちらは家康の側近くに仕えさせることによって自分と信康の立場を強化できると考えたのではないか。つまり、直政の徳川家仕官は直虎と築山殿の協力によって実現したと言う訳である。

 義元によってつくられた、“佐名”を中心とするつながりをよすがに、ふたりの女性が運命を切り開こうと考えたのだ。

 ドラマの瀬名は少女時代「龍王丸(氏真)の妻となり、今川を手に入れる」と夢を語っていたが、血縁をテコにしてそれを徳川家において実現しようとした築山殿は、4年後に不幸な事件で信康とともに死をとげるが、直虎が期待をかけた直政は家康の信任を得て出世していく。義元の婚姻政策を逆手にとった、直虎の勝利だった。