やがて、このしばき隊がコアとなった反レイシズムのネットワークは、中心を持たない「クラウド」のまま、ほとんど何も考えた形跡がないまま戦後左翼の定型にからめとられていくようにして反安保法制や沖縄問題に介入していく。反原発運動に右翼の立場から参加し続けている針谷大輔氏は、「右からの脱原発」を唱える理由として、脱原発運動が左翼の運動と思われたらそれは終わってしまうからと言う。実際、ヘイトスピーチ規制法も自民党の右派からの賛同があって初めて前に進んだものだった。沖縄問題もこれまで左派が決定的な役割を果たしたことは一度もない。沖縄問題は左翼の運動だと思われたら終わりなのだ。それなのに、よりによって悪評ふんぷんたるメンバーが、いわば沖縄の住民運動に介在していく。これが果たしてほんとうに問題解決のためのプラスになるのか私には極めて疑問だ。そこではまた例のように居住まいの悪さが続く。おそらくまた不祥事は露出するだろう。

「日本会議の研究」
「日本会議の研究」


 一方で、運動からいわば追放された菅野氏は独自の道を歩んだ。これが逆に正解となった。かつて行動をともにした人たちが、定型の戦後左翼活動をしていく一方で、これから離れた菅野氏は持ち前の押しの強さとヘドロを掻きわけるような行動力、そして何よりも狙った相手となら刺し違えてもかまわないという覚悟を武器にして新右翼と右派人脈に食い込み、そして『日本会議の研究』をものにする。

 だから、研究書というよりもノンフィクションとしてのスリルに満ちたこの書は、過去の暗部から這い上がってきた菅野氏のたったひとりの「運動」なのである。そういう意味で、菅野氏を「ジャーナリスト」ではないというのはあたってもいるだろう。彼は扇動している。大向こうを相手にした運動を行おうとしているのだ。だが、もともとはジャーナリストというのはそういう存在なのではなかったか。

 テレビタレントのどうでもいいような不倫スキャンダルやアイドルグループの子供じみた内紛を報じるのがジャーナリストなのか。それがドンキホーテの故事のような愚かな結末になるとしても、「巨悪」にせめて真っ向から立ち向かうのが報道なのではないのか。もちろん、これに賛否があるだろう。しかし「狂信者」は事態を打開するために突き進む。己の才覚と悪運の強さだけが彼の頼るべきものだ。きっと地獄に落ちても同じことを菅野氏はやっていくだろう。