第二に、このような防衛大臣という官職の位置付けの変化にもかかわらず、何故、稲田朋美という政治家は、防衛大臣職に任用されたのか。彼女は、その政治上の経歴から判断する限りは、外交・安全保障政策領域に特段の見識を持たない「ドメスティック志向」の政治家である。靖国神社案件や歴史認識案件で彼女が過去に披露したナショナリスト色の濃厚な言説は、外交・安全保障政策領域の見識を担保するわけではない。もし、安倍晋三総理が彼女の防衛大臣起用に際して、「経験を積ませよう…」という類の「親心」を働かせたのであれば、そうした「親心」は、現下の安全保障環境に照らし合わせて、不要であったと評すべきであろう。

 そもそも、目下、北朝鮮の脅威は「新たなステージ」に入り、東シナ海や南シナ海での中国の海洋進出は露骨の度を高めている。加えて、日本は、米国を含む各国と「2+2」(外務・防衛担当閣僚会合)の枠組を設定している。それは、「どの国々も自分だけで安全保障を確保できない」という安全保障政策上の要請に沿ったものである。
来日したマティス米国防長官(左)を出迎える稲田朋美防衛相=2月4日、防衛省(納冨康撮影)
来日したマティス米国防長官(左)を出迎える稲田朋美防衛相=2月4日、防衛省(納冨康撮影)
 しかも、そうした安全保障上の国際協調の中核である米国において、ドナルド・J・トランプ政権下、その役割を担うのは、「狂犬」「闘う修道士」とも渾名されるジェームズ・N・マティス国防長官である。イラクやアフガニスタンでの実戦経験と蔵書7千冊とも評される読書に裏付けられた見識を誰も疑わぬマティス長官を前にして、稲田大臣は、果たして太刀打ちできるのか。

 前に触れた『読売新聞』社説で指摘された彼女の「軽さ」は、そうした安全保障環境の下での「不安」を増幅させている。それは、「この大臣で本当に大丈夫か…」という不安である。彼女は、そうした「不安」を払拭すべく真摯に臨んでいるであろうか。そうした真摯さをこそ、彼女は何よりも世に伝えるべきではないのであろうか。

 2000年代以前、防衛庁長官という政治官職は、「少壮政治家の跳躍台」のように扱われてきたけれども、そうした「常識」が防衛大臣に関しても残っているのであれば、それは、改めた方が宜しかろう。防衛大臣という政治官職は、外務大臣や財務大臣と同様に、自民党であれば派閥領袖級の重鎮政治家が担うものであるという新たな「常識」を形成する必要がある。そうでなければ、最低限でも外務、防衛の副大臣職を経験し、外交・安全保障政策領域の見識が明らかな政治家を起用するかである。

 その意味では、安倍第二次内閣発足以降、小野寺五典、中谷元の両氏を防衛大臣に起用したのは、安倍総理における正当な判断であった。それは、安倍総理が防衛大臣の「重み」を十分に理解したが故の判断であったといえよう。しかしながら、その判断は、稲田大臣起用に至って、何故曇ったのか。それは「安倍一強」と評される政治情勢の下、安倍総理の「油断」を表していなかったとは果たして断言できるのか。