東京新聞の深田主幹には、その点を確かめた。すると「それは特報部がやっている」と答えた。特報部は反省文より前に番組を批判する記事を掲載しているので、それらの記事を信用したのだろう。だが、結果的には日当問題にせよ、救急車問題にせよ取材が十分だったとはいえない。

 そもそも論説主幹が自分で取材せずに「反省文」を書いた姿勢自体が怠慢ではないか。事実関係の究明より前に自分の主張を優先する。これは朝日新聞の慰安婦報道批判で、さんざん指摘された「ストーリーありきの報道」と共通している。

 事態がいっそう深刻なのは、問題が「言論の自由」に関わるレベルでも「ストーリーありきの論説」となっている点である。

 当初のニュース女子自体に取材不足だった面があるのは、私も認める。ただし、それは番組の問題だ。私は番組の司会者であり、取材者ではない。ここが新聞との違いである。新聞は基本的に取材者が記事を書く。これに対して、テレビはチームであり番組と取材者は同じではない。

 新聞に「司会者も責任を免れない」とコメントした識者もいる。そんなことを言えば、司会者は出演者の発言にも責任を持って、自分がすべて裏取りをしなければならなくなる。私はメディア問題の識者なる人たちのデタラメさを見た思いがした。彼らは現場を知らないで、モノを言う無責任な人種である。

 ニュース女子騒動は言論の自由をめぐって「組織と個人の対立」問題も提起した。私は東京新聞の報道や社説が反対派にいくら心情を寄せていようと、私個人がそれと異なっていても何ら問題はないと考える。それが、私の「言論の自由」にほかならないからだ。
 ところが、世の中にはそう考えない人々がいる。深田主幹が反省文で私に「対処する」と世間に公言し、実際に私を論説副主幹からヒラの論説委員に降格したのは「副主幹という立場で出演したのが問題」という理由からだった。

 論説副主幹は東京新聞の論調に縛られなくてはいけないのか。もしそうであれば、副主幹はいつでもどこでも東京新聞の論調に沿って書いたり、喋らなければならなくなる。「社の意見が違うことがあってはならない」というなら、東京新聞は北朝鮮と同じだ。