私は2014年秋まで社内の論説会議でも大方の論調と違う論を語っていた。ところが、そのころを境に会議には出席せず、意見も言わなくなった。なぜか。この際、はっきり言おう。当時の論説主幹から「もう君には社説を書かせない」と通告されたからだ。
 そのとき以来、それまでは2カ月に一度くらいのペースで順番が回ってきていた日曜付大型社説の執筆当番からも外された。私は「おかしい」と思ったので、社の最高幹部に事情を訴え「どうしたらいいか」と尋ねた。

 最高幹部は「論調が違う君の主張だって、他の委員と順番で書けばいい」と言ってくれた。だが、ヒラ取締役の論説主幹は「いくら最高幹部だって、それはオレが絶対に許さない」と私に断言した。私は唖然(あぜん)としたが、言い争うことはしなかった。以来、会議には出席していない。

 つまり、東京新聞は今回の騒動が起きるずっと前から、私の社説執筆を許さず社内で異論を封じてきたのだ。

 異論をどう扱うべきかについて、東京新聞は何度も興味深い社説を書いている。たとえば、自民党結成60周年をテーマにした社説(2015年11月15日付)だ。総裁選で野田聖子衆院議員が推薦人を集められず立候補断念に追い込まれた件で、こう主張していた。

「議論を自由に戦わせるよりも、異論を認めず『一枚岩』のほうが得策という党内の空気である」「国民の間に存する多様な意見に謙虚に耳を傾ける。それこそが自民党が国民政党として再生するための王道である」

 もう1つ、安倍改造内閣の発足ではこう書いた(2014年9月4日付)。

「安倍政権の面々には、国民の声に耳を傾ける謙虚さを持ってほしい」「自らの主張のみ正しいと思い込み、国民の中にある異論を十分にくみ取って、不安に思いをめぐらせたと言えるのだろうか」「異論封じが強まる気配すら感じる」

 自民党には「異論を尊重せよ」と上から目線で訴えながら、自分たち自身はどうなのか。まったくチャンチャラおかしい。こういうダブルスタンダードが左派マスコミの典型である。「自らの主張のみ正しいと思い込む」という言葉は、そっくりそのままお返ししよう。

 それでも社外のメディアに執筆するコラムやテレビ、ラジオその他で、私は完全に自分の「言論の自由」を確保してきた。東京新聞に対する批判を含めて、である。会社もそういう私のスタンスを容認していた。

 それどころか「東京新聞論説副主幹」の肩書でテレビに出るのを望んでいたのは、むしろ会社側なのだ。首都圏でマイナーな東京新聞の宣伝になるからだ。そういう事情で、これまで私は会社から注意も叱責もされず、論説副主幹の肩書で外の仕事を続けてきた。