「論調が違うなら会社の肩書を使うのはやめてほしい」とネットで公言している東京新聞記者もいる。それは会社に言うべきだ。今回の騒動でも、なぜ論説委員への降格にとどまっているかといえば、そんな事情で会社は私を真正面から処分するつもりがないからである。

 ただし、会社がどう考えようと、肩書は私の重要な個人情報であり、それをどう扱うかは私が決める。他人が私の肩書にあれこれ言うのは、余計なお世話だ。一記者にすぎない自分の考えが東京新聞の論調と勘違いしているなら、思い上がりというものだろう。

 そもそも今回の私の人事は、会社の規定で言えば「処分」でもなんでもない。通常の人事だ。むしろ定年を過ぎているのに、7年間も副主幹を務めているほうが異例だった。

 だが、社外的には「対処する」と公言して「処分」の体裁をとった。つまり、社内向けと社外向けで使い分けている人事なのだ。なぜ、そうなのか。社外には処分の形にしないと、反対派の手前、格好がつかないとみたからである。

 これは、まったくサラリーマンの事なかれ主義そのものだ。言い換えれば、形だけ反対派に迎合したにすぎない。私は、そういう信念のなさ、事なかれ主義こそが言論の自由を危うくすると思っている。だいたい主幹は「そこは阿吽(あうん)の呼吸で」とか「大人の対応で…」としか言えなかったのだ。見識も何もあったものではない。

 「言論の自由」は、それを脅かす者たちから戦い取るものだ。戦いはいつでも、どこでもある。右であれ左であれ、安易な迎合主義こそが言論の自由を奪っていく。そんな自由の本質を深田主幹と、反省文の掲載を認めてしまった東京新聞はまるで分かっていない。

 「東京新聞と意見が違うなら、会社を辞めて出ていくべきだ」という主張もある。私はそういう考えにもくみしない。異論こそが議論の健全さを担保すると思うからだ。社内の会議に出ていなくても、私のコラムや発言は社内で広く読まれ、知られている。

 辞めてしまうのは簡単だが、私が辞めていれば、そもそも今回の騒動も違った形になっていただろう。ニュース女子騒動がジャーナリズムの問題を洗い出したと思えば、つくづく辞めずに良かったと思う。私には、いつかこういう事態が起きるという予感もあった。今後も私から辞めることはない。