元号の歴史をみると、支那で紀元前2世紀に漢の武帝が自分の治政の始まりを「建元元年」としたのが始まりである。古代の人は迷信深く吉凶に敏感であったから時代の世直しを重視した。しかし、皇帝の交代はできないから、その代わりに元号を設け改廃するようにしたのだろう。その後、元号は皇帝の代替わりのほか、迷信により瑞兆あるいは災害により改められた。

 だが、14世紀の明の光武帝が迷信による改元を取りやめ、皇帝一代一元制度とし、後の満洲人の清朝もこれをならった。支那は長い歴史があるが、王朝が短命で交代するごとに歴史の始点が戻るので、結果的にのこぎり歯のようになり、連続した紀元の制度は生まれなかった。その後清朝が滅亡すると、支那人はその年(1912年)を中華民国元年とし、今でも台湾は民国紀元を守っている。一方で、中国は無神論なのにキリスト教暦を使っている。共産主義革命と言いながら、自国の歴史に自信がない表れである。

 我が国には、西暦645年に支那から元号の発想が導入され、孝徳天皇が大化元年とした。その後、日本でも吉凶による迷信的な改元が行われたので、天皇は125代であるが、元号は250以上ある。しかし、明治維新では日本でも「一世一元制度」が採用され、明治元年となった。以後大正、昭和、平成となっている。
全国御巡幸を始め、熱烈に歓迎を受けられる昭和天皇。敗戦にうちひしがれた国民を励まされた=昭和21年2月、神奈川県内
全国御巡幸を始め、熱烈に歓迎を受けられる昭和天皇。敗戦にうちひしがれた国民を励まされた=昭和21年2月、神奈川県内
 日本の元号の特徴は朝鮮王朝と違い支那王朝の元号を採用せず、独自の元号を用いていることだ。これは支那政治圏からの日本の政治的な独立を意味している。また、日本は支那のような易姓革命が起こらず万世一系なので、元号とは別に民族の歴史を全部つないだ皇紀という概念が成立する。ちなみに今年は皇紀2677年である。

 インドネシア独立記念碑の年号は西暦ではなく、日本の皇紀である2605年と刻まれている。これはインドネシアが長年のオランダのキリスト教支配から脱したことを示している。年号は明らかに国家の政治的な独立を意味する。

 日本は1945年の敗戦ですべての政治、社会、文化、教育制度が解体された。この中で元号も法的な根拠を失った。しかし、慣行として元号は広く日本社会で使われていた。こうした混乱の中で、50年、参議院文教委員会で元号の正式廃止が検討された。委員長はキリスト教徒の田中耕太郎で、委員はキリスト教関係者や左翼の元号反対派が多かった。時代は米国の極東政策の転換期であり、日本は再独立に向かっていたので、天皇廃絶を謀る勢力が占領軍の残された威力を利用して元号を正式に廃止しようとしたのかもしれない。

 しかし、田中が更迭されると後任の山本勇造(有三)委員長は、各委員に対し西暦採用や元号廃止を前提とせず自由な意見を要請した。キリスト教や左派の委員は元号廃止と西暦の採用を主張した。廃止の理由は、年数計算の簡略化と元号の占領憲法の違反性である。

 つまり、戦後の天皇は象徴にすぎず、元号を管理する統治者ではないから、元号制度は民主主義にそぐわないというのである。一方、参考人の坂本太郎東大教授は、元号制度は独立国の象徴であり、生活文化上便利であるとして元号の維持を主張した。占領下で独立に言及したのは勇気ある行為であったのは言うまでもない。有名な歴史家、津田左右吉も元号の維持を主張し元号は象徴天皇、占領憲法と矛盾しないと主張した。紀元制度は年数計算に便利というのは確かだが、国民生活の歴史という時代の視点が抜けている。これは「巻き尺オンリー主義」だ。