占領憲法論との論争はもともと占領憲法の目的が天皇崇敬を含む日本の生態を破壊することであり、元号擁護は天皇崇敬による生態の回復だから黒と白で、まったくかみ合わない。それでも天皇象徴論による論議では政府側から「天皇は国民の象徴である、元号は天皇の象徴である。だから元号は国民の象徴である」という三段論法が示され、野党議員が反発している。だが、「象徴」という用語には明確な定義はないのだ。
昭和天皇の署名がある日本国憲法の公布原本
昭和天皇の署名がある日本国憲法の公布原本
 元号には歴史時間の管理機能の他に豊かな文化的実績がある。例えば「降る雪や明治は遠くなりにけり」(中村草田男)という名句がある。しかし、これを西暦で記すと俳句にならない。これは「明治」だから感慨があるのだ。元禄時代の認識もまたしかりである。書道でも西暦では格好がつかない。日本の文化には元号が染みついているのだ。

 元号は目に見えないが日本民族の貴重な歴史文化遺産だ。失うともう一度作る事はできない。紀元や年の管理方法は民族により固有である。だから日本人は無条件で元号を護持する。キリスト教徒でもないのにキリスト暦だけを使うというのは、誠に独立心がない行為で情けない。便利というが異文化に屈服し、呑みこまれることだ。文化的植民地になる。キリスト教徒の元号反対は日本の文化的な独立を奪い、キリスト教に従属させることが狙いだから話にならない。民族の伝統はしっかり守り、次の世代にそのままパスするのが我々世代の使命だ。

 元号制度は、機能的から見ると公式には天皇と国民を不断に結ぶ縁(よすが)であるが、同時に国民の生活体験から見る歴史の時代区分である。その内容は社会とともにその時代を生きる各個人の体験が決める。まさに等身大の歴史といってよい。

 左翼がおどろおどろしく言うように、支配者が元号を通じて国民を支配するというようなものではまったくない。左翼は元号により帝王が時を支配すると言うが、時を支配できる人間などいない。便宜上元号という目印をつけるだけだ。我々の生活には共同体には度量衡と同じように歴史的な時の管理についても共同体共通の基準が必要だ。それが紀元とともに元号なのだ。

 反対論者は元号を不便という。しかし、年表をみれば良いだけである。大切な民族文化を守るのに手間を省いてはならない。使い分けをすれば豊穣な民族文化を簡単に維持できる。元号を西暦と併用することには誰も反対しない。

 改元は日本人の精神に希望を与える。内外多難な時ではあるが、我々は新しい天皇をお迎えし、新しい時代を創る心の準備を始めようではないか。